いただきます


 

 ガランガラン、と鐘が鳴る。

 学園の廊下、聞こえてきた音にわたしは足を止めた。鐘が鳴ったということは誰かが選ばれたということなのだ。

 街で唯一無二の高層建築物、「塔」の頂に鐘はある。

 建物に人が出入りする扉や窓はなく、側壁に昇るための足掛かりもない。手入れの必要はなく、ただ時が来ればが鐘はひとりでに鳴る。

 街の住人に誰かが選ばれたことを報せるために、その者を祝福するために、残るものの心を奮い立たせるために。

 

 

「……あのエル・ネヴァンらしいですよ」

 

 耳に飛び込んできた単語にわたしははっとした。

 恥ずかしい。鐘の音に気を取られたまま、廊下でぼんやり突っ立ていたのだ。小さく息を吐いて気を取り直し、歩みを再開する。

 声の主は通り過ぎていった女子生徒のものらしい。

 エル・ネヴァン……面識はないが名は知っている。わたしと同じ、旧い家柄に属する娘。

 学園では専攻するクラスが違うと絶対に顔を合わせることがない。入学前にどこかであったことがあるかも知れないが、ともかくわたしは彼女の顔を知らない。だが優秀らしいことだけは知っている。

 成績優秀者の名だけはクラスが違えどどこからか耳に入ってくる。だから顔は知らないが……ということはよくあることだった。

 それだけで充分。

 顔を見たいとは思わない。

 大事なことは選ばれる事だけである。これはわたしだけの意見ではなく、学園に通う者の総意といっていい。

(……エル・ネヴァンの娘は選ばれたのか)

 わたしは知らずうち心臓の上を拳でさすっていた。

 選ばれた――言い換えるならもう噂になることはないということだ。

 彼女は消える。

 だがわたしに傷をつけていった。

 

 わたしはまだ選ばれていない。

 

 

 

 下校するまでに何度かエル・ネヴァンの名を聞いた。

 ひとつ訂正する。エル・ネヴァンは家名だ。

 だれもかれも彼女の名を口にしなかった。なぜなら彼女の名は長い。だが近親でもない他者が略称で呼ぶことは敗北も同じ。

 親は子供に期待を込めて長い名前をつける。優秀でない子供の名は短くなる。

 名前が長いというのはその者が優れている証であり、それを正確に口に出来るということはそれもまた優秀であることに他ならないという暗黙の了解がわたしたちにはある。

 ……たしか、

「アリューシャ……エデル・コーデリア・スザンナ・ヴィヴィ・マーサ・オードリィ・フラン、エル・ネヴァン」

 こんな名前だったはずだ。

 誰に聞かせるでもなく、わたしは両手の指を折りながら唱えた。

 そうして家の近くまでやってきて、わたしは足を止めた。

 住む人間は減っても手入れだけは怠らない広大な敷地に立つ虚栄の屋敷。

 その外観を眺めて自然と溜め息が出る。

 ここ数日、そのため息の数が増えていた。

 帰りたくないわけではない。なんだか胸のあたりが重苦しくなるのだ。だがずっと突っ立ているわけにもいかない。

 正門のところで出迎えの者と言葉を交わし、屋敷に入ったあと書斎の父に軽く挨拶し、わたしは自分の部屋にこもった。誰はばかることなく溜息を吐く。

 最近思うことがある。

 わたしの家族は父と、亡くなった母だけだっただろうかと。

(……ばかばかしい)

 そうは思うのになぜか一度湧いて出た疑問をずっと拭いきれずにいるのだ。

 どうして今頃こんな疑念をわたしは抱いているのだろう。

 考えなければいけないのはそんなことではないのに。

(早く、どうか、わたしを選んで――)

 

 

 鏡台の前に座り、後ろで一つにまとめていた髪をほどく。背中の先まで届く赤髪を何とはなしに手に取った。

 両親とは違う髪色。祖先の肖像画にも見ない。だからわたしはあまりこの髪が好きではない。しかし嫌いにもなりきれない。

 考えたことがなかったが、どうしてだろう。

 夕焼けがどうだとか、何か言われた気がする。

 誰だっただろう。

(……やめよう)

 わたしは追求しないことにした。

 些末なことだ。

 大事なことはそれじゃない。なにも努力してまで思い出す必要はない。そうは思うのに、

「……」

 正面の鏡に映るわたし。どこもおかしくないのに奇妙に心がざわついた。

 

『夕焼けに染まったら、もっと僕好みの赤になる。……好きだよ、アイヴィ』

 

 

 

 *

 

 

「アイヴィ」

 

 自分の名前にはっとする。

 夕食の席、大きなテーブルを囲むのはわたしと父の二人だけ。

 ひょっとして何度も呼ばれていたのだろうか。

 しかし父はこちらの反応を気にしたようでもなく、というより気づかなかったようで、話を続ける。

(……何の話をしていたんだっけ)

 わたしは素知らぬ顔で、大急ぎで記憶を辿る。

 ……そうそう、学校での様子をきかれたけれど特別報告することもないから当たり障りのない話をしてやり過ごしたんだ。

「いいかアイヴィ。お前だけがわたしの、いや、一族の希望なんだ」

 熱っぽく訴える父に笑みを浮かべて頷いた。だけど本当は、もう何度聞いたか分からない話にうんざりしていた。

「わかってます。わたしが、このレゾレントの家が旧き者の代名詞ではないことをみなにとくと分からせてやります」

「ああ、アイヴィ……」

 もう長いこと、我が家は死んだも同然だった。

 かつてそれなりに名を馳せたレゾレントの人間を、いつからか鐘は祝福してくれなくなった。だから代々の家長は優秀な跡継ぎをつくることに躍起になっていた。父もまたその一人。

 父の願いはこれまで使命を果たせなかったレゾレント家、みなの願いでもある。

 

 

 目を閉じると耳の奥で今日聴いた鐘の音が蘇った。

 眠る前はいつもその日学んだことを振りかえることにしているのだが、ちらつく鐘の音に堪えきれなくなって目を開けた。

 自分で思っている以上に影響されたらしい。

 天井に向かって熱い息を吐く。

 エル・ネヴァン……たしかあの家は魔術を得意としていた様に思う。そしてそれが売りだった。旧家名家といわれるところにはそれぞれ得意とする分野がある。もちろんレゾレントにもある。

 だがどんなに優れていようと選ばれなければ、鐘が鳴らなければ意味がない。

 そのためにわたしたちは学園で多くを学ぶ。

 迎えるべくして迎えるあるじを守り、生かすための方法を。

「……はあ」

 意識してゆっくり息を吐き、わたしは目を閉じた。そして今日の課題だった戦場絵図を脳裏に広げ、敗戦者視点を展開させる。

 何故負けたのか。

 その知識はないがしろにしていいものではない。相手を誘導する虎の巻になるかも知れないし、似た兆候から勝利の鍵を掴めるかもしれない。もっとも机上の空論という言葉があるように、どんなことだって必ず想像通りに行くと思ったら間違いだ。

 調子よく事が進むからつい、いい気になってあとで泣きをみた、そんなことが昔あったように。

(……そんなことあった?)

 最初から全て相手の手の内だったのだ。

 

『ごめんごめん。でもこれで一つ賢くなった。そうだろう?』

 

「――っ」

 かっと目を見開く。

 今のは誰の言葉だ?

 

 ……まただ。

 わたしは額を押さえた。

 こうして時折蘇る、身に覚えのない情景。

 だが知らないものを思い出したりするものだろうか。単に忘れているだけなのか、それとも身近の出来事を覚えていて知らず捏造してしまった? いや捏造はさすがにあり得ないし、わたしにどんな得があるだろう。

 忘れたというのがどう考えても正解に思える。

 しかしそれならそれで、なぜ今思い出した?

 いいや、なぜ忘れた?

 ……ああ、いけない。

「ごちそうさまでした」

 わたしは無意識に唱えていた。

 約束したおまじないの呪文。

 唱えたあとはもう、わたしの思考は戦場絵図に舞い戻っていた。

 

 

 *

 

 

『約束してくれるかな』

『……うん?』

『あのね。ぼくのこと思い出しそうになったら、ごちそうさまって唱えるんだ』

『……ごちそうさま……? どうして?』

『そうだね、おいしいものを食べたらごちそうさまって言って、笑顔になるだろう? おまえの暗い顔は見たくないもの……ほら、笑って』

『……ほっぺ、いひゃい』

『はは、ごめん。……いいよ、別に。どうせ、父さんの魔法がみんな忘れさせてくれる』

 

 

「――っ」

 薄闇に目を見開く。

 まるで身体全体が心臓という塊になったようだ。

「……ゆめ……」

 荒い息を吐きながら額に手の甲を押しつけた。身体が熱い。全身汗びっしょりだ。

 夢にしては現実味、というか既視感がある。

 登場人物は幼いわたしと、顔の見えない誰か。声は男のもので、歳は少年と青年の狭間ぐらいだろうか。

「……父さんってまさか、父さま……?」

 まさか、と頭を振ってみるもどこか否定しきれない。

 家の再興を一番に願う父だから、ひょっとしたらわたしが知らないところで何かしている可能性も考えられる。

(……わたしに? 内緒で?)

 そうすることで生まれる利点はなんだ? 

 身体に走った怖気に思わず肩を抱いて、目を閉じた。無意識に唇が動いた。

「ごちそうさま」

 自分の唇から零れた単語に時が凍り付いた。

 夢の光景が幻想ではない証。あれはやはり過去にあったことで。だけどわたしには覚えがない。声の主に心当たりもない。

 いても立ってもいられなくなり、わたしはベッドから起き上がった。父に直接確かめよう、まだ外は暗いが構うものか。ベッドの上で悶々として頭を悩ませて夜明けを待つなんて出来ない。

 ふと視線を流した先に鏡台があった。

 足が止まる。

 目を凝らす。だが鏡に映るのはわたしだけだ。

 息を吐いて気を取り直したところで、ぎくりとした。

 そっと自分の右肩を見る。

 だれもいない。

 ゆっくりと鏡に視線を戻す。

 知らない人間が映っている。

「だ……れ……?」

 声が震えた。視線に縫い止められたように足が動かない。鏡の中の男はまっすぐわたしを見ていた。

 憐れむような表情。

 この人は誰?

 知らない。

 本当に?

 本当に?

 だめ、この先は――

 頭ががずきずきといたむ。

 わたしは知らない。

 わたしにはいない。

 いなかった。

「あ……あ、ああ……」

 視界が涙でにじむ。

 わたしは何故泣いているのだろう。

 誰のために泣いているのだろう。

 頭の霧が晴れ、求めていた答えが胸の奥からするりとあふれ出た。

 この人はわたしの、

 

「おにいちゃん――」

 

 

 

 **

 

 

 生まれる前から決まっていた。

 自分は次に生まれてくる者ためにあるのだと。

 

 

 この世界では名前の長さが秀でていることの証であり、生まれる前から期待を込めて長い名前をつける。期待外れだったらどうするのかという話だが、不思議なことに期待通りに育つ。でもだからといってみんなが鐘の音に祝福されるわけではない。

 この名付けの際、男児の名は女児より短くされる。生まれてくるのが男児というだけで周囲の期待値はぐっとさがる。

 それでもレゾレント家に生まれたぼくは、少しだけ名前が長かった。でも誰もぼくの名をきちんと呼ばなかった。

 ぼくはそういう存在だった。

 生まれたときからそうだったから何も特別おかしいとは思わない。

 両親は宿願を受け継いで家を再興することに必死だった。

 息子であるぼくにありとあらゆる教育を施した。

 あるときぼくに妹ができた。妹が出来ることは幼少の時より聞かされていたから何の驚きもない。ただ時が迫りつつあることだけは確かだった。それでもぼくはその時を受け入れだれるだろうと思っていた。でも違った。

 妹が五歳の時に母が死んだ。

 急な病で、と表向きにはなっているが本当は違う。

 ぼくが食べたからだ。

 ぼくの母がかつて親兄弟をそうしたように。そうして母が受け継いだもの、力や知識といったものを今度はぼくが受け継いだ。

 全てが計画通りに運んでいた。

 あとはこれを妹に託せば、事は完了である。

 おまえは妹のためにある、生まれたときからそう言い聞かされて育ってきた。だからなのか妹が余計に可愛く思えた。少し歳が離れているのもあるだろう。

 ……だけど、無邪気に接してくる妹がどこか腹立たしく感じもした。

 

 妹には記憶消去の術を施すという。

 

 ぼくは母さんを食べた日のこともちゃんと憶えているっていうのに。

 さすが、生まれる前から望まれた子は違うな。

 ……羨ましい。

 形をひそめていた嫉妬の蛇が鎌首をもたげた。

 

 

 

 

 

『やあアイヴィ。ようやく思い出した?』

「あ、……ああ……おにいちゃ、」

『ほら泣かないで。――聞こえるかい』

「……え?」

『鐘だよ、鐘が鳴ってる――』

 

 いつもよりはっきりと鐘の音が聞こえる。

 まるで頭上から降り注ぐように。だけど耳にうるさくはない。

「わたし……選ばれた……」

 呆然と呟けば、

『そうだよ、おめでとうアイヴィ』

 耳元で我が事のように喜ぶ声がする。

 頭が混乱していた。

 わたしにはお兄ちゃんがいて、わたしはお兄ちゃんを……食べた? そう、食べた。ぐちゃぐちゃと。涙を流して、涎を垂らして。

 食べなさいと父さまに言われたときは何を言うのかと怒ったし、とても嫌だったけれど、お兄ちゃんは笑っていたし、急に頭がぼんやりしてきて、気がついたら朝でわたしはベッドの上だった。

 みんな忘れていた。

「わ、わたし……」

 ずっと鐘の音を待っていたけれど。今はちっとも嬉しくなんかない。

 ねえどうして。

 どうして。

「わたしお兄ちゃんを食べたくなんてなかった……っ」

 こんな気持ちになるのならずっと忘れていたかった。足下がふらついて、わたしはその場に座り込んだ。

 混乱するわたしに、兄は問うた。

『おいしくなかった?』

「え……?」

『僕はこうやっておまえのことをずっと見ていられるから楽しかったんだけどな』

「おにいちゃん、なに言ってるの……?」

 鏡に映る兄は穏やかそのものといっていい、自然の笑みを浮かべている。わたしの背に怖気がはしった。

『だからね、おまえが気に病む必要はこれっぽっちもないんだよ。それとも……なに、アイヴィは僕と一緒はいや?』

「い、嫌とかそんなの、」

『なら何が問題なのさ。昔みたいに、お兄ちゃん大好きって言ってよ』

 わたしの言葉を切るように話しかけてくる。

 鐘の音が全身を打ち据えるかのよう浸透して、あたまの芯がぼうっとしてきた。思考すらままならず、本能的な恐怖が言葉になって唇から零れた。

「こわい」

『大丈夫だよ、アイヴィ』

「おにいちゃん?」

『ずっとぼくが一緒にいてあげる』

 ひたすら優しい囁きに、わたしはわからないまま頷いた。

 

『ずっと、ずっと一緒だよ』

 うっそりと嗤う気配がした。

 

 

 

 

 


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