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 値段交渉はつつがなく済んだ。

 

 品評会では、ほとんどの商品が最初から値段表示しているが、なかには「要交渉」とだけ記したものもある。

 モモは後者だ。

 バートリーの社運を担う鍵。自分達が丹精込めた一品に一体いくらの値がつくのか、彼らは知りたかった。

「言い値で買おう」

 買い手の声に社長らは舞い上がった。

 要交渉と掲げてはいるがもちろん、最低ラインは設けてある。それだけの自信があった。提示額がそれを下回れば、いくら社運がかかっていようとも仕方ないが引き下がろう、そう考えていた。

 それが言い値で構わないと言われたのだ。

 バートリー社社長、マーカスは震えそうな手を叱咤して小切手に金額を綴る。電子化が進んでも大事なことには紙を用いる文化はまだ残っている。

「それでいいのか」

 高額をふっかけてくると予想していたのか。それとも予想より安いと思ったのか。買い手の男が今一度問うてくる。

「はい、もちろん」

 言いも悪いも、いまはこれで充分だ。

 あとは必要事項を記入するだけの契約書を差し出す。

 男が鋭い目つきで文書を確認し、空白を埋め、最後に親指のはらに犬歯を突き立てた。滲み出した朱色をサインの傍に擦りつける。

 ヒト社会では時と場合によってインクと血を使い分ける。後者の方が重要度は高い。

 マーカスは完成した契約書のサインを改めて見つめた。

 ――『グレン・アーヴィング』

 それが目の前の厳つい大男の名。

 彼はこの『霧のくに』のあるじ『アシュリー・ヘイズ』の忠信と影で囁かれている、いわゆるお貴族様だ。

 そんな大層な人物が無名に近いバートリー社の商品を買ってくれた。

 モモの今後の活躍次第ではひょっとすると、互いにこれは良い取引だったとなるかもしれない。バートリーの株も上がるかも知れない。

 マーカスは込み上げてくる歓喜を抑えるのに必死だった。その傍らでマーカスの妻、シェネルはモモを抱擁して別れの時を惜しんでいる。

「モモ、元気でね」

「はい」

「検診はすっぽかしちゃダメだからね?」

「ふぁい」

 手塩に掛けた息子ならぬ商品だ。手放すのはやはり名残惜しいところがある。

 抱きしめる力が強いのか、それとも顔の位置の問題か、モモの声はどことなく苦しげだ。それでもモモはされるがままになっていた。

「ちゃんとお嬢様に尽くして、気に入られるのよ?」

「……うん、もちろんです。だってぼくは」

「うちの看板商品になるんだから、でしょう?」

 見上げたモモの頬を、いい子だとあやすようにシェネルが撫でる。ちょっぴりくすぐったくて、モモは目を細めた。

 ……なんだろ、今ちょっと離れたくないかも。

 そう考えてから、気付いた。

 これが寂しいとか切ないというものか。

 擬似的な体験はこれまでたくさんしてきたけれど、身をもって体験するのは片手で事足りるくらいしかない。バートリー夫妻や社員達はモモにいろいろなことを教えてくれた。一般的なそれとは形が違うけれど、モモはみんなとの生活を家族みたいだと思っていた。

 だけどそんなみんなとも今日で一旦、お別れだ。

 契約を無事締結させたマーカスが二人の元にやってくる。

「マーカスさん、」

 あらん限りの手を使ってモモを立派な商品にするべく今日まで育ててくれた、バートリー社みんなの期待に応えたい。

 マーカスの無骨な手がモモの肩を掴んだ。

「モモ、行ってこい」

「はいっ」

 会場の出入り口前で親子が待っていた。

 何も今生の別れではないのだから、あそこへは期待だけを持っていこう。

 モモはしっかりと前を向いて歩き出した。

 

 

 

 磨き上げられた真っ黒な車体は鏡の代わりになりそうなくらいぴかぴかだ。そしてなんと運転手付きだ。

 ……はあ、さすが貴族。

 モモは驚くより、感心していた。

 モモが暮らすこの『霧の州』では移動手段として車が用いられているが、所変われば、車を廃して馬車を常用する懐古主義なくにもよそにはあるらしい。

 もしいつか見に行けたなら――それはなんて僥倖だろう、それくらいにモモは考えている。夢のまた夢の話だ。

 車内は広く、座席は対面式。進行方向を向いて、親子が並んで座っている。革張りの座席は座り心地よく、あまり走行による揺れを感じない。

「改めて自己紹介をしよう。わたしはグレン・アーヴィング、プラントの統合管理者を任されている。そしてきみはわたしの娘、サラのものになった」

 わかっているね、と厳つい顔が問いかけている。一瞬怯みそうになって、違うと気がついた。

 彼はただ事実を突きつけているだけ。顔はおまけだ。恐れることはない。

 もちろん心得ていると、モモは持ち前の笑顔でもって頷いた。

「うむ、よろしく頼む。サラは十三歳だから……きみとは五つ違いになるな」

 グレンが隣の娘に目配せする。流れを引き継ぐようにサラが小さく頷いた。

「モモ、と呼んでもいい? それとも違うお名前がいい?」

 訊かれてモモは、改めて考えた。

 バートリーではずっと『モモ』と呼ばれていたけれど、はて、これは正式名だったろうか。いいや、最初は単なる通称だったはず。

 ……だけどそれ以外の名前で呼ばれたことがないし、もし違う名前になったらどんな感じがするんだろう。どんな名前がついたって中身はそのままなんだから、いやそれともついた名前に応じて変容しちゃうのかな……うーん。

 どっちにせよ、確かなのは一つ。決めるのはモモではない。

「サラさまのお好きなもので構いません」

 いけない。あやうく姫さまと言うところだった。

「そう? じゃあわたし、モモと呼ぶわ。構わない?」

 首肯したなら、白い手が目の前に差し出された。見るからに柔らかそうな肌にモモは触れるのを躊躇う。

 ……ぼく王子様じゃないけどいいのかな。

 恐る恐る手を伸ばせば、モモより少し低い体温が重ねられる。思った通りの感触に内心、うっとりした。

「これからよろしくね、モモ。……あなた、ちょっと熱くない?」

 手を握ったサラがいぶかしげに眉を顰める。

 モモは笑った。

「大丈夫です。さっき魔法使ったからちょっと、知恵熱が出てるだけで」

「知恵熱?」

 何のことか問うようにサラがグレンを見、それからモモの額に手を伸ばした。一瞬躱すべきかと考えたが、車内という限定された空間、しかもヒトの身体能力を考えれば徒労に終わるのが目に見えている。

 仕方なく、されるがまま、を選ぶ。

 額に触れたサラが、微かに目を見張った。

「ほんとうに大丈夫なの?」

「はい、ご心配なく。無茶しなければそのうち引きますから」

 努めて安心させるように微笑む。けれどサラの顔は半信半疑といったふうだ。それではモモは困る。だってモモはサラのものになった。所有者を煩わせるなんて、駄作もいいところだ。

 どうしたものかと思案しかけた矢先、グレンから問われた。

「知恵熱、といったが、それはきみが魔法を使うたびに起こるのか?」

「ひょっとして、ぼくの仕様書には……?」

「ざっと目を通した中にはなかったな」

「……きっと、ぼくが言えばそれで問題ないと判断したんでしょう」

 記入漏れではなく意図的な省略だ。

「質問への答えですが、「今だけ」です。ぼくの身体がまだ幼いから負担が大きいらしくて……成長したら平気になるそうです」

「そうか。……まあ、日常で魔法を使うようなことはそうそうありはしないだろうが。サラ、おまえも気をつけなさい」

「ええ、お父様。……モモ、辛かったら横になりなさい」

 モモはちらと座席の空きを見る。

「ありがとうございます。でもだいじょうぶですから」

 お姫さまから優しい言葉を掛けて貰えた、それだけで充分だ。

 

 

 

 


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