10


 

 じょきり、じょきり、と重くて冷たいが聞こえなくなったから、モモはそろっと目を開けた。

 矯めつ眇めつといった感じのサラの顔が視界に飛び込んでくる。その右手には銀色の鋏。左手の櫛でモモの前髪を梳けば、ぱらぱらとそうだったものがふるい落とされる。

 アーヴィングの邸で暮らして二年、モモは十歳になった。

 その間、モモの前髪を切るのはずっとサラだった。

 本当は全て自分の手で行いたいようだがさすがに自信が無いらしく、その代わり自分が世話になっている美容師に横からあれこれ注文をつけて、そうしてモモの髪はサラ好みに仕上げられている。

「……うーん」

 サラが唸る。

 短すぎず、長すぎず。

 そこを見極めるのに、サラは妥協を許さない。

 傍目にはどこがどう変わったか分からないとしても。

「モモ、目をつぶって」

 言われたとおりに、モモは目を閉じる。

 追いかけるようにじょきんと鋏の入る音が聞こえ、モモは無意識に唇をひき結んだ。

 己の職務を全うせんとするサラの口数は自然と減り、邪魔したくないと思うからモモも最低限の呼吸だけに留める。

 部屋の中はたちまち静まりかえる。

 その空気は外の人間が踏み込むことを躊躇するものだが、中にいる二人には居心地いいものだった。

 数日前から、アーヴィングの邸はざわついていた。でも表面上はいつもと変わりない。

 それというのもこのくにのあるじ、アシュリー・ヘイズが来訪するからだ。

 それが分かった日、ロゼがすれ違いざまモモに言葉を投げた。

「よかったわね」

 以前にモモが言ったことを覚えていてくれたらしい。

 ヘイズの来訪云々よりそちらの方が嬉しくて、衝動的に抱き上げたらこれでもかと牙を剥いて嫌がられ、あえなく手放した。嫌われてはいないと思うけれど、ロゼは難しいなあとモモはいつも思う。でもきっと完璧にわかり合えないからいいのだと思う。

「……はい。いいわよ」

 許されて、目を開ける。

 服を汚さないように巻いていたケープの上からサラが髪を払う。首の後ろの結び目を解いて、モモを椅子から立ち上がらせる。

「お風呂ね」

 後片付けを手早く済ませて、モモの手を引いて浴室へ向かう。

 一緒に入って髪を乾かしてもらう、そこまでが一セットだ。

 嫌ではないけれどそろそろ一人で入りますと拒むべきだろうかと、モモは悩みはじめていた。いくらモモが愛玩物だろうと、性が異なる。年頃の女の子がそれはどうなのだろうかと、頭の中の倫理書とにらめっこするモモだ。

 請われれば応えるし、必要性があれば先回りもする。けれどご機嫌でモモの身体を洗うサラを前にすると「今度からは一人で入ります」とは言いづらい。

 もしもそれでサラが不機嫌になったらどうすればいいだろう。

 あるじを喜ばせるのがモモの本分である。

「モモ? どうかしたの?」

 泡のついた指がモモの頬をくすぐる。今日は泡風呂だ。湯船の中、ふわふわのもこもこに包まれて、向かい合っている。

「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてました……いよいよ明日ですね、ヘイズさま来るの」

「緊張してる?」

 もちろんだと、モモは頷いた。サラが笑う。

「あたしも、お目に掛かるのは初めてだから、モモと一緒よ」

 サラはモモの手を取って、自分の胸、心臓の辺りに触れさせた。

「ね?」

 脈打つ音を感じ取ろうとモモは耳を澄ませた。

「……サラさまのおむね、すこしおおきくなりました?」

 目測という不正確さながら気付いたことを真面目に口にすれば、サラが何とも言いがたい顔で己の胸を見下ろす。まだモモの手は同じ位置だ。

「……触ってみる?」

 消え入りそうな声に驚いてサラを見れば、微かに目元を朱に染めてモモを見ている。

 重なっていたサラの手が離れる。心許ない気分でモモは指を僅かにずらした。恐る恐る膨らみに触れてみる。

 ぴくりとサラの眉が動くも、一点に集中するモモは気づかない。

 背中を流したり、髪を洗う手伝いなんかはしたことあるけれど、しっかりそこに触れたことはこれまで、ない。

 ……やわらかい。

 知識としてはもう知っているけど、体験しなければ得られない感想がある。

 何度も触って確かめたいような、だけど何だかそれはいけないことのように思えて、モモは手を引っ込めた。

 何かに堪えるように唇をひき結んだサラを見て、それで正解だったと思った。

「くすぐったかった……ですよね。いっぱい触ってごめんなさい」

 逡巡するような間のあとに「ううん、いいのよ」と返ってきて、微かに震えた語尾に思わず「サラさま?」と問い返さずにはいられなかった。

「……なあに?」

「ごめんなさい、具合悪くなったかと思って」

「……それでどうして謝るの」

「それは……、ぼくが触ったなのかなって」

 言いながら自信を無くして視線が彷徨う。

 モモが触って具合が悪くなるなら、そんな機会はいままでいくらでもあったはずだし、そもそも自分はそんなことができるタマだったか。自分のせいだなんて、自意識過剰なんじゃないだろうか。

 サラがシャワーの栓を捻った。

 降ってきた霧雨に顔をあげると、モモの顔にサラの影が落ちた。

 額に柔く、温もりが触れていく。

 本当か幻か確かめずにはいられなくて、モモは自分の額に手を当てる。その仕草をおかしそうにサラが笑った。

「安心して、モモ。わたしね、あなたに触れられるのも触れるのも、ちっとも嫌じゃないの」

 柔い唇がモモの鼻先に触れて、離れていく。

「……好きよ」

 

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 いよいよ客人をもてなす当日。

 サラに手を引かれ、モモは会食の場である広間に連れて行かれる。

 アーヴィング家の面々と客であるアシュリー・ヘイズ、そしてその連れ。

 その場に人間、それも愛玩物であるモモが同席するのはいかがなものかと、何か言われる前からモモは辞退した。

 そうしたらサラはものすごく不機嫌になって「それならわたしも出ない」と言い出した。

 グレンはグレンで、自分達はモモがいて構わないしヘイズの方も特に反対はしないだろう、なんて言う。

 だからモモは困ってしまった。

 それでも時間だけは過ぎていって、とうとう当日だ。

 夢が叶うなら、遠目に見るくらいで充分だと思っていたのだ。直接まみえることになるとは思わず、人生というのはよく分からない。

「大丈夫よ、モモ」

 広間に入る前にサラが笑いかけてくれたから、モモも腹を括った。

 自分の容姿がどう見られるかは十分知っている。だから今日は品良く愛らしい置物に徹しようと決めた。

 既に到着済みの客人らは、とっくに先に席に着いていた。あとはモモとサラだけだった。

 実際に見るアシュリー・ヘイズの顔は、モモの頭の中にある写真とそう変わらないものだった。

 グレンが剛であるなら、そのの対極にある柔に位置するだろう。そのせいか、それとも若者みたいな服装がそう見せるのか、年齢不詳感がある。まるでこの州の二十代ぐらいの若者が好んでしそうな装いだったが、よく似合っていた。

 自己紹介されるまで、アシュリー・ヘイズの隣の人物は彼とそう歳の変わらない、彼の弟かと思っていたが、なんと息子であった。

 成人しているようには見えないものの、翡翠色の目は父親そっくりだった。

「ライアンです」

 彼の視線は興味深そうに、まだ席に着いていないモモとサラの繋いだ手に向いている。

 ……しまった。

 いつもの調子で繋いだままきてしまった。解いてもいいかと、サラを見上げる。未だ身長はサラに分があるのだ。

 なあに、と目線で訊ねられ、ちらと繋がれた手元を見る。分かっているだろうに笑顔で躱された。諦めて、何でも無いと小さく頭を振る。

 改めて会食の席を見た。椅子を数えて、本当に自分の席があることに足が竦んだ。

 品評会で大勢に眺められている間にもこんな気持ちになったことはなかった。あの時はどうか誰かぼくを買ってくださいと必死だったからだろうか。

 いや、期待に応えたいという点は今だって同じはずだ。

 モモ、とサラの唇が動く。

 行くしかないのだ。

 手を引かれて、席へ向かう。でも先にサラの椅子を引いて彼女が座ってから、隣合わせた自分の席についた。

「話にはきいていたけど、なかなか可愛い子じゃないか」

 なあ、とヘイズに話を振られたライアンが同意するように頷く。

「モモ、自己紹介しなさい」

 グレンに言われ、挨拶する。

「モモです。このような席に加えていただき、ありがとうございます」

「そんな畏まらなくていいよ。大層な肩書きついてるけど俺、堅っ苦しいのは生来好きじゃないんだ。普段のきみでいてよ」

 ……ふだんの?

 改めて言われると戸惑うばかりで、つい縋るようにサラを見てしまった。

 サラは笑ってテーブルの上にあったクッキーを一枚摘まんだ。

 夕食前の一時ということで、ここにあるのは菓子と茶だ。

 ヒトの主食はあくまで人間の血だが、会食となればかつての痕跡を真似て豪勢な晩餐に興じることもある。アーヴィングの邸でも誰かの誕生日とか祝い事ではそういうことをする。そんな日は、モモの食事も同じものになる。普段だって専用の食事を容易して貰って、それだけでもありがたいことなのだ。己の境遇は本当に恵まれていると思う。

「ほらモモ」

 突き出されたクッキーにいつものように反射的に齧り付きそうになるも、だめだと留まる。

 だけどサラは手を引っ込めない。モモはちょっと涙目になった。

 ……お客さまの前だけど、いいのかな。

 そうじゃない。

 いいのかどうかなんてモモが決めていいことではなかった。サラがそれを望んでいる。ならばモモが取るべき行動は一つだ。

「ん、」

 思い切って端にかぶりつく。

 視界の隅で、ライアンが目を見張るのが見えた。

 ……やっぱりびっくりするよね。

 グレンやベティは普段から見慣れているからそこまで動揺していないが、やはり客の前なので、グレンが娘をたしなめるための咳払いをする。

 サラはちらっとグレンの方を見たが、手は引っ込めなかった。

 最早味わうでなく、いかに品良く完食するか。モモの頭はそれしかない。丸い焼き菓子がどんどん小さくなって、あとはサラの指が触れているところだけになる。

 白い指に触れてしまわないよう慎重に、慎重に、最後の欠片を口に入れたなら、サラが満足げに微笑んだ。

 だからモモも嬉しくなって笑顔になる。

 それは見慣れぬものには毒とも言うべき破壊力があった。まだ成長しきらぬ未分化な美少年が笑うと天使のように愛くるしい。それは充分、老若男女の心を鷲掴みにする。

 そこに加えて、高嶺に咲く百合のようなサラが微笑むのだ。

 眼福ともいえる光景である。

「これはまた……いつもこうなのか?」

「そうだな。最初はどうかと思ったが……」

「はあ、ごちそうさま」

 甘い空気の発生源に聞こえぬよう、グレンとヘイズがこっそりそんな会話を交わしていた。

 

 

 夕食までまだ早いとあって、サラは一旦さがるとモモを部屋から連れ出した。

「疲れた?」

 モモは小さく頭を振った。もちろん嘘だ。

「ねえ、待って」

 追って出てきたらしいライアンが呼び止める。

 面倒臭そうにサラが息を吐いて、立ち止まった。

「ちょっといいかな」

 サラに伺いを立てているようで、視線はモモに向いているから興味があるのはどちらなのか明らかだった。

「なんですか」

 サラがモモの腕を引いて背中へ隠す。

「ああ、待って。そんなに警戒しないで。なにもきみから盗ろうってわけじゃない、なんというかその、端的に言うなら僕は人間に興味があるんだよ」

「それなら何もモモじゃなくてもよくありませんか?」

 サラの声は冷たい。学校でモモに絡んでくる生徒たちと喋っていたときみたいだ、とモモは思った。

「よくないよ」

 きっぱりとライアンが言い切った。

文献ほんも大事だけど、この目で見て、手で触れて、それで初めて得るものだってあるんだよ! ……というか、僕は気になったことは放っておけない」

 拳を握り、訴える。

「…………わかりました」

 ライアンの熱意に押し切られる形で、サラが渋々承諾する。

 このまま立ち話するのもあれだし、広間では大人達が旧交を深める語らいの最中だ。どこで話をするかとなって、サラがクリムの部屋に決めた。

 クリムは初めて見る顔に「だれだこいつ」とガンを飛ばしていたが、サラから説明を受けひとまずはおとなしく部屋の隅に移動した。が、やはり気になるようでちらちらこちらを窺っている。

「それでライアンさんは、ぼくの何が気になるんですか? ぼくが答えられることなんて、教科書とかに載っているようなことくらいですよ?」

 ヒトが覇権をとって、人間は表舞台から姿を消した。純たる人間の生活圏はヒトの治める社会の外にある。互いの交流はない。

 よって記録された人間の生態は、両者がいがみ合っていた頃で刷新が停まっている。

 モモのようなヒトによって造られる人間のもとは、その古い記録だ。

 それに手をくわえ、あれこれこねくり回し、現在進行形で型は派生し続けている。

 いつかモモの弟妹が完成し、誰かに買われていく。その時、モモは古い型の一つになる。

「ライアン、でいいよ。いやね、きみらを見ていて思ったんだ、ちょっと仲が良すぎやしないかって」

 ライアンはそこで言葉を句切り、サラを見た。モモを自分の前に座らせ、人形を抱えるみたいに腹の方へ腕を回すサラに目を向けた。

「そんなにくっついていて、大丈夫なの?」

「……空腹に気をつけていれば問題ありません」

 ヒトの大半は吸血種が占める、よって大半のヒトの主食は人間の血だ。

 可愛がるために買った人間にどれだけ献身的に愛を注いでも、ひとたび、それが些細な傷でも血を見たり匂いを嗅げいでしまえば、ヒトは衝動に負けて愛する対象をエサに変えてしまう。

 だから愛玩用の人間はほかより少し頑丈に出来ているし、不注意なんかで怪我しないように教育される。

 それでも、人間はヒトよりすっと脆い。

「それならいいんだ……じゃあ、今度はきみに。あ、モモって呼んでもいい?」

 モモは頷き、好きに呼んでくださいと付け加えた。だけどこの時、ライアンはサラにも伺いを立てていた。モモの背後、サラが小さく頷く。

「モモは、メーカーどこなの? 大手のじゃあないよね? 大手だったらカタログで見ただろうし……」

 言いながらライアンはポケットから携帯端末を取り出し、浮かんだ画面に指を這わせ、何やら検索し始めた。

「カタログ……何か購入希望があるなら、相談に乗りますよ?」

「え? 違うよ、カタログ見るのが好きなだけ。買ったことないし今のとこ、その気もないな。うちは献上品とかいってカタログとか、そういうの無駄に届くんだ、だからね」

「なるほど……。あの、ぼくのとこは大きな会社じゃないので、なんというかぼくが初めてみたいなものだから、たぶんまだカタログは作ってないと思います」

「そうなの? どこ?」

「バートリーです、わかります?」

「…………ごめん、知らない、と思う」

 記憶を攫ったらしいライアンが肩を竦める。

「……知っていたらこっちがびっくりです」

「でも、聞いたからには忘れないよ。初めてみたいってことは、最初の成功体ってこと?」

「はい」

「ふんふん、」

 そう言って、ライアンが画面に何やら書き込んだ。

「枝だが一つ増えた」

「枝?」

 ライアンが画面を弾き、モモ達にも見えるよう、反転する。

「学校の課題でね。僕たちヒトが造る人間の、最初の奴を基点にこう……木の枝みたいにチャートを造ってるんだ。で、今、モモのことを足したから枝が増えたわけだ」

 ライアンが作るチャートは始点が左端、右へと展開しているから、横倒しの木みたいだとモモは思う。

「用途別とかじゃなくて総合?」

「そっちも作ってはいるけど……用途を分ける基準って曖昧だからさ、あくまでメモってかんじかな」

 単なる品名品番の羅列に留まらず、各社シリーズの特徴、価格、時代背景、ライアン個人の感想など枝葉には細々と書き込みがされている。

 ライアンのチャートにはモモも知らない、モモじゃなくてきっと知らないだろう、消えていった型がいくつもあるようだ。

「人間に興味があるって本当だったんですね」

 思わずといった感じでサラが言った。彼女がはっと息を飲むのを、モモは聞いた。

 ライアンがにやっと笑って、

「信じてくれた?」

「そう、ですね」

「じゃあ、これからちょくちょく遊びに来てもいい? ……歓迎してない顔だなあ」

「……そんな顔してません」

「そう? じゃあモモにも訊くけど、ねえこれからも遊びに来ていいよね?」

 そんなことを言われても、モモは困る。

 ……どうしてぼくに訊くのかな?

 ライアンをどうこうしようにも、その決定権は最初からモモにはない。モモには受け入れるという選択肢しかないのだ。あるじであるサラが本気で嫌がっているなら拒むが、サラは迷っているようだ。

「ぼくはサラさまの意志に従うのみです」

 モモはサラの手に自分を重ねた。

「さっきから思ってたけど、あんまり子供っぽくないよね、喋り方」

「すみません、気に触りましたか?」

 言う傍から、これもだめかもと反省する。

 ……ごめんなさい、の方がよかったかな。

 子供らしくないことを嫌がるヒトもいるから気をつけるようにはしている。

 特にサラといるときは少しでも年相応な感じを出そうとしている。けれどあまり形にはなっていないし、サラからも無理はしなくていいと言われている。

 ライアンはここへ招かれた客だからどうしてもそれ相応な口調になってしまうのだ。

「いや別にどうもしないけど……ん? ああそうか、そういう仕様なのか、だから妙な気はするけど鼻につかないのか?」

 ライアンはぶつぶつ言いながらモモなど眼中にない様子で端末をいじっている。

「……おかしなヒトね」

 ぼそっとサラが言う。

 腕の拘束が緩まったのに気付いて、モモはそこでようやく身をよじり、サラの方へ向いた。後ろからぎゅっと抱き寄せられているこの状態も嫌いじゃないけれど、表情が見えないのが気になる。

「……モモもそう思う?」

 内緒話だ。声を潜め、サラが問う。

 そこにあるのはいつものサラで、モモは安堵する。

「……少し」

 見あげた姿勢のまま、モモは囁き声で答えた。

 ずっとこうやって傍にいたい。

 

 

 

 


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