キミの成分


 

 あまりに真剣で。

 あまりにも無邪気だから。

 私は――怖くて。

 自分が怖くて。

 どうにかなってしまいそうで。

 

 だからあなたを**そうと思った。

 

 

 

◇◆◆◇

 

 

 

 誕生日が嬉しいなんて若いうちだけよ――。

 ……そんなものなんだろうか、と香織は思う。ピンと来ないのは自分がまだ十六の若造だからなのか。

(明日には十七になるんだけど)

 友人らが放課後祝ってくれるという。

(あー、早く明日にならねえかな)

 言ってしまえば、一つ歳をとるという、それだけのことなのだけれど。それなのに期待してしまうのだ。何かいいことがあるんじゃないか、明日はいい一日になるんじゃないかと。

 もっともそんな思いが時間経過に流されてしまうくらいには子供ではなくなったのだろう。

 次移動だろ、早く行こうぜ――友人の高村が言う。

 よだれよだれ――と隣の席の女子が言う。周囲がくすくす笑う。慌てて口元拭うと、おそらく校内で一番人気のあるクォーター美少女、リサと目が合った。やっぱりこっちを見ておかしそうに笑っている。

 香織は苦笑いを浮かべてやりすごした。

 一年の時から全員持ち上がり。朝も夕も夏も冬も和気藹々と、まるでぬるま湯につかっているような気分で――香織はこのクラスが大好きだった。

 

 ………………て。

(……?)

 …………きて。

(……だれ?)

 ……起きて。

(起き、て?)

 一体誰が寝ているというのだ。

 困惑する香織に声はなおも促してくる。起きろと。

 ……ここはあなたの現実じゃないわ。

 意味が分からない。

 ここは日だまりの中のようで心地よいのだ。それにだいたい、

(眠ってなんか――)

 けれど。

 

 ――覚まして、目を。

 

 静謐な、凪いだ水面をさざめかす滴のごとき一声。

 はっと刮目するが、しかし。

(…………あれ。誰も……いない?)

 美郷香織は自分がひどい思い違いをしているのではないかと軽く恐怖に囚われた。

 教室は空席ばかりで――いいや、ひょっとすると学校には誰もいないのではないかと思えるほど、

(なんか――)

 生きている者の気配がしない。

 自分だけが取り残されたような孤独と疎外感。

(みんなどこ行ったんだ?)

 ふらふらと席を立って窓に駆け寄る――グラウンドに人の姿はない。

(どうして?)

 よろけるように後退って、廊下に飛び出した。

(これは夢なのか……?)

 だとしたらなぜ自分は目を覚ましたのか。それすら夢のうちなのか。けれどそうなるとひとつ壁にぶち当たる。

 いつ自分は眠ったのだろう。

(移動教室があって、みんなに誕生日を祝ってもらって……それから……それから)

 記憶を攫いに攫っても眠りに落ちた瞬間が現れない。

 静かな校舎内、耳につく駆ける自分の足音と呼吸音。

 誰の姿も見あたらなくて、最早焦燥だけが探索の意欲をかき立てる。

(誰でもいい。だれか。だれかいてくれ……!)

 きつく奥歯を噛みしめる。そうしないと叫び出しそうだった。そんなみっともないことできない。

 誰か。

 誰か、だれかだれか、だれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれか――誰かっ。

 唾を飲み込んで、廊下を蹴る。

 

 ……はやく。

 

「――え」

 空耳に足は止まらない。

 

 ……呼んで。

 

 まただ。

 頭の中で声がするなんて、自分は気でも狂ったのだろうか。

(でも……)

 幻聴なのに、初めて聞いた気がしない。

 呼んで、と。声は請う。

(――なにを)

 訊いたところで応えが返るわけがない。相手は幻聴だ。

 しかし。

 

 ……名前。

 ……呼んで。

 ……私の名前を呼んで。

 

 知っているでしょうと言わんばかりに。

(名前って……?)

 訝る気持ちとは裏腹に口からするりとこぼれ落ちたのは――

 

「アリューシャ……エデル・コーデリア・スザンナ・ヴィヴィ・マーサ・オードリィ・フラン、エル・ネヴァン」

 

 自分の口から溢れたものに驚いて足を止める。

(なん、だそれ)

 そんなのは知らない。

 なのにどこか懐かしい響き。

 いるかも分からない声の主が微笑んだような気がして、

 

 ……待ってた……。

 

 聞こえた声に香織は周囲を見回す。

(いない)

 いるわけがない。

 これは空耳。幻なのだ。

 けれどそれを安堵していいのか分からなくて。

 おかしいのは自分か、周りか。現在進行形で深みに嵌っているのはどちらだ。

(――誰か)

 正解が欲しい。

「……だれか、」

 笑いたいくらい泣きそうな自分の声に引っ張られて俯いた香織の視界、人の足が映った。

 理解できなくて顔を上げる。

(え……)

 突然現れた存在に声が出ない。

 蒼い瞳の少女が香織を見て嬉しそうに微笑んだ。

「――さあ、命じて。私に」

 

 

 

 思考回路が焼き切れたみたいに頭の中は真っ白だ。

「……きみは?」

 言うべきことは他にもあるだろうが、香織の口がかろうじて紡いだのはそれで。

 少女は手のかかる弟妹を見るような微苦笑を浮かべた。

「さっき呼んでくれたじゃないの」

「や……それは、」

 ほとんど無意識に流れ出たもので、香織としてはそら言と大差ない。それにあれが名前だとしても、それでは求める答えにはならない。道ばたに落ちていた布きれを「布きれ」と知っているが、じゃあその用途は何と訊ねて「布きれよ」と返された気分だ。

 けれどおかしなことに、それでいい気がするのも事実で。

 彼女を見ていると妙に落ち着くというか、そこにいるのが当たり前のような気がしてくる。

 まるで知っているのに忘れているような……。

(……なんだそれ)

 自分の考えにぞっとする。

 非現実的だろう。まだ悪い夢を見ているという方がしっくりする。

 戸惑いを隠しきれない香織を少女は穏やかな表情で見ていたが、唐突に腕を掴まれ引き寄せられた。

(な、なんだ?)

 驚いているところ、廊下を何かが風を切って過ぎていった。

 何なんだと問い詰めたく少女を見ればその双眸は、やや厳しい表情で廊下の先を見つめている。そこに何があるのか――辿って振り返った香織は目を疑った。

 こちらに狙いを定め、制服姿で洋弓を構える少女。

 ごくりと喉がなる。

(何の冗談だ……)

 名前は忘れてしまったが、全校生徒の前で表彰されていたから顔を覚えている。一年生ながらアーチェリー部の期待の星。

 すると先の風切り音の正体はあの弓から放たれた矢で……。

 彼女の指が弦から離れる。

 香織は動けなかった。吸い込まれるように見つめてしまっていた。諦めていた。一体自分が彼女に何をしたのか分からないが、あれで裁かれて自分は終わる。

 潔い諦めの割に心臓は早鐘のようだ。違う、周囲の時間が遅く感じるせいだ。

「だめよ」

 赦さないとする声が香織の耳朶を打ち、意識を現実に向かわせる。その鼻先五十センチほど前で矢が壁に弾かれたように砕け散った。

 何が起こったのか目を白黒させていると、少女に腕を引かれ、再び向き合う形になる。その顔はもう笑ってはいなかった。

「言って、助けてって」

「え」

「早く、」

 冗談ではないことは顔を見れば一目瞭然だった。

 彼女はそれを切に願っている。

 だから、

「……た、助けて」

 訳は分からないが、望みを叶えようと思った。

 告げた途端、彼女がそれはそれは嬉しそうに笑う。けれどそれなのにぞくりと背筋に悪寒がはしった。

 少女が香織の手を取って、指を絡めた。繋がる先から伝わる熱。そこから侵蝕されるような……。

 その熱さにたまらず香織は目を閉じた。くらりと酩酊する意識。

 柔らかい声がする。

「逆らわないで、怖がらないで。私をあなたに混ぜて」

 頭の芯がぼうっとして、吐く息は熱い。

 熱い。

 胸の奥が。

 ちがう、もっと形ない物で。

 熱と熱が交わって。

 聞こえる。

 守らせてと。

 いいよ、と香織は応える。守ってよと。

 正気であればまったく、熱に浮かされているとしか思えなかったが、その選択が間違っているとこの時は思えなかった。

 奇妙な充足感に浸りながら目を開ける。

 すぐそこまで迫っていた矢が蒸発させられたように跡形もなく消え失せた。

 誰の仕業かと聞く意味はもうない。分かりきっている。

 少女が髪をなびかせて隣に立っていた。矢をつがえる向こうをすっと指差し、見据え、

「砕けなさい」

 慇懃に告げた。その横顔を頼もしく、美しいと香織は思った。

 鏡が穿たれたような鋭い破砕音とともに、弓を構えた少女の姿は掻き消えた。まるではじめからそこにいなかったように。悲鳴すらなく。

 はあ、と息をついたところで疲労がどっと全身に襲いかかった。座り込みそうになった身体を少女に支えられる。

「な……にこれ」

「反動よ」

「反……動?」

「大丈夫、慣れれば平気になるわ」

 何も問題ではないとその笑顔は言っているが、香織は欲しいのはもっと具体的な説明だ。

「……あの子は……いったい」

「あの子?」

「今の、アーチェリー部の、」

「ああ、それなら無事よ。……というより、あなたの知っているその子とあれは別の存在だから」

「別?」

「そう。この場所……学校、だっけ。ここだってそう。幻。たぶん本物の上から投影しているんだろうけれど」

「まぼろし……」

 そう言われると、探しても誰もいないことに納得できる。しかもこの少女の為したことを思えば、非現実だと喚くことも出来ない。

 これが夢の中の夢でない限りは。

「きみは……」

 言いかけた香織を少女が口を尖らせて遮った。

「そんな他人行儀な呼び方はやめて。アリーって……呼んで、」

 昔みたいに、と聞こえた気がした。

 

 

◇◆◇

 

 

 屋上へ出られる唯一の扉を開ける。

 香織たちは幻術とでも言うべきこの奇妙な現象の発生源を探してひとまず階下へと探索の足を向け、それから上へと昇っていった。

 校舎は人気がない割に、まるで刺客のように敵が現れた。

 真剣を振りかざす剣道部。口から数字を溢れさせる数学教師。ボタンを飛ばす風紀委員。シャベルで床を割る園芸部……。

 それらはみな、香織の学生生活の中にある者たちばかりで、幻だとしても倒した後には苦い気持ちを味わわずにはいられない。

 撃退するのはもっぱらアリーで、香織はただ命令していただけだった。

 もともと香織は対抗する術を持っていなかったし、アリーは香織が命令しないと動けないのだという。彼女が言うには矢の第二射から守ってくれたのは自己防衛力であって決して香織を助けるため自発的に発揮されたものではないらしい。

『私はあなたの盾で剣。使うのはあくまであなたなの』

 思い返すと溜息を吐きたくなる。

 命じている間は筆舌に尽くしがたいほど快感だ。けれどそのあとにやってくる疲労は息をすることすら厭わしくなる。

 それでも彼女は大丈夫、と微笑む。絶対の確信があるように。

 けれどそれが香織には信じられない。

「――よう、どうだった?」

 雨ざらしで変色したフェンスに切り取られた四角い空間、二つ並んだパイプ椅子に友人の高村とリサが仲良さそうに掛けて待っていた。

(……こいつらそんな仲良かったけ)

 いつのまにデキてたんだ、などと呆けた頭で香織は考えてしまった。

 高村がそんな香織を見て噴きだした。しまいに腹を抱えて笑い出す。

「今おまえが何考えてるか分かるぜ。似合わねえとか思ってんだろ?」

 図星なので何も言い返せない。

 すると高村は不機嫌そのものの顔になって、

「ざけんな。おまえの物差しで測るなっつうの」

 その隣でリサが頭が痛そうに溜息を吐いた。

「……アラタ、いつまで雑談続けるつもり?」

「……すいません」ばつが悪そうに高村が口をとがらす。よっ、と声を出し、席を立った。

「悪いがさっきまでのは、ただの予習。試験はここからだ」

「は?」

「現実に戻りたかったらこの人を倒しなさいってこと」

 注釈を入れたリサに向かって「そりゃごめんだ」と高村が嫌そうに眉をひそめる。それから香織の隣を指差して、

「その女を使って戦え、俺と」

 香織は思わず隣を見る。アリーに動揺している様子はない。それどころか、

「さあ、言って?」

 期待するような目で催促してくる。

 戸惑う香織は高村たちへ視線を戻す。そこにいるのはさっきまで戦ってきた相手とはっきり違って生々しい存在感がある。

「……なに躊躇ってんだよ。使い方はもう知ってるだろ」

「それは――」

「……ちょっと待てよ。お前、言われるまんまやってきただけで、そいつのこと何にも知らないな?」

 そいつ、が指すのはアリーしか考えられない。

 答えられない香織を見て、我が意を得たりとばかりに高村が頷く。

 リサの顔が不快げに歪み、鋭い視線を投げた。

「傅く者としてあるまじき行為だわ。狂っているっていうのはどうやら本当みたいね」

 瞬間、少女二人の間に目に見えない亀裂が走る。

 ぞわっと立つ鳥肌。嵐でも発生しそうな場の荒れ模様に香織は彼女を見るのが怖かった。それでもそっと隣に視線を向ける。

 ぱっと見ただけでは分からないが、引き結ばれた口元を見れば決してアリーが内心穏やかでないのが察せられる。

「知った風な口を利くのね」

 アリーの声には、香織と話すときのような甘さは一切含まれていない。自分に向けられたわけでもないのに香織は竦みそうになる。けれどリサの方は違うようだ。

「《目録》にあって、一度も契られたことない存在――誰の声に耳を貸さない、まるで相手を選んでいるかのようだってわたしたちの間では有名よ。わたしたちに拒否権はないのに、だからどこか壊れてるんじゃないかってね」

 語尾に嘲笑を混ぜるぐらい、リサは強気だった。

(……リサって、こんなだった……?)

 香織の知るリサは、いつもおっとり微笑んでいて、自分から話題を振ることはないが話の輪にはちゃんと入ってくる、そんな子だ。

 知らなかっただけで、これが本当の彼女なのだろうか。それとも今までが偽りだった?

「《目録》ってのは二つ名みたいなもんだ」

 腰に手を当てて、高村が言う。

「二つ名?」

「リサなら《幻鏡》、能力に準じたやつがつく。そこの女は今のところ不明、ってことで俺らの出番なわけだ」

「や、だから能力とか出番とかよく分かんねえって――」

「ああ、そこから言わなきゃいけないのか」

 高村は言われて気がついたように目を瞬いた。それから講釈ぶるように人差し指を立て、

「まず訊くが、こいつらはこの世界の者じゃないなってのは、なんとなくわかるよな。そしたら、もしかしたら別世界なんてものがあるんじゃないかって考えてみたりする、ちょっと莫迦げてるような気がしながら。でもそいつは間違ってない」

 高村は隣を見やる。リサが頷いて、

「わたしたちの世界はね、いつかあなたたちに使われる日のために学び努力するようできてる。あたしたちは仕える相手を選べないし、そっちも選ぶことは出来ない。采配できるのは二つの世界を結ぶ神だけ――」

 そこでリサはアリーを見た。

「けれどそこで不思議が起こる。ずっと存在を確認されながら、長い間沈黙している存在。そんなことって本当にあり得るのかしら。彼女は何かしたんじゃないかって人々は考えた。何しろ誰も彼女の能力をちゃんと知らないから」

 何かが香織の中で引っかかった。

(なんだ? ……そうだ、ちゃんと、だ)

「そう、《目録》に載る前の彼女なら、情報はあるの」

 リサと目が合ってどきりとする。こちらの考えぐらいお見通しらしい。

「最近《目録》が更新されてな。ついに所有者が現れる運びとなりまして、下っ端の俺は歳を偽って同級生を演じることと相成ったわけです」

「え……」

「二十歳になってもう一回高校生やるとは思わなかったわ。しかも高一からだぜ」

「楽しんでたくせに」

「そりゃ一人じゃなかったからな」

 香織など空気と変わらないのか、二人だけの世界を作る高村とリサに動揺は加速する。自分もあんなふうに誰かろ結びつきたい。

(――って。そ、うだ)

 さっきから黙ったままのアリーが気になってそっと隣を窺えば、意外なことに不満や不快、憤りでもなく、それはそれは退屈そうな顔で。

 彼女は香織の視線に気付くと、取り繕うのではなくごく自然な感じで笑顔になった。

「香織」

「!」

 初めて名前を呼ばれた。それだけのことに、こんな時だというのに体温が上がる。

「言って」

「え?」

「さあ。彼らを斃してと」

 彼女はとびきりの笑顔で香織を絶句させた。

 白い手が香織の頬を包む。

「躊躇ってはだめ」

「ちょっと待……」

「だめ、向こうは待ってくれないわ。それに布告したのは向こうからよ。心配する事なんてない。みんな幻。早く元の世界に戻りたいでしょう?」

「それは――」

 

『みんな幻』

 

 言葉が刺となって胸を刺す。

「……さあ、言って。この幻を破ってって」

 これなら問題ないでしょう、と目が訴えかけてくる。その懇願に満ち濡れた瞳に香織は思考を投げた。

「……お願い」

「ええ」

「ぼくを助けて」

 世界を切り捨てるように目を閉じる。額に柔らかい感触を受けて、驚いて目を開ける。場違いなほどに幸せに満ちた顔があって――頬から染みこんでくる温もりが思考を蕩かして。

「あなたは見ていて」

 あたしを、と続いたような気がした。

 盾になるように立ちふさがった背中に小さな胸の痛みを覚えた。

 どうしてか、その痛みを懐かしく思う。

 羨ましくて、妬ましくて悔しくて切なくて悲しくて……でも誇らしく、頼もしく、そして嬉しかった。

 浮かび上がってきそうな単語を酩酊感がかき消した。

 

 

◇◆◇

 

 

 ネヴァンの家に生まれた女児には長い名前がつけられる。それは優秀であることの証。

 女系の家にあって男子はどうしても冷遇される。

 アリーには弟がいた。一般的に言えば優秀な部類だが家から見れば「まるで駄目」であり、世間から見ても姉には及ばなかった。

 けれどそんな評価など抜きにして、アリーにとって彼は優れた弟だった。古くさい家の中で腐ることなく向上心を持ち続け、

『きっとぼくが一番姉さんを上手く使えるだろうに』

 なんてことを真剣に言うほどに情熱家で。

 そのまっすぐな想いが、声が、目が。

 好ましく。このうえなく嬉しくて。

 でもふとした瞬間、爪先を行く手にぽっかり空いた穴の淵に引っかけたみたいに怖くなって。

 だから――。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 ……覚えているでしょう?

 誰よりも私を知りたがった人――。

 

 知らず香織は頷く。

 誰よりも知っている。

 その白い指、瞳も髪も、みんな。

 

「――僕のだ」

 

 ここではないところで****は目を開ける。

 見渡すばかり咲きほこる花にはみな棘があって。なんだか安堵して。彼はその中から棘のない一輪を迷いなく見つけ、そっと触れ、口づけた――《索引》に。

 花弁の薄桃色が爪先に移る。

 色の抜けた花を軽く弾いた――《引き出す》。

 アリーの口端がゆるく持ち上がった。その足下から地を割って蔦が飛び出す。向かう先はもちろん、高村とリサ。しかし二人は平然としているどころか、そこから動くことさえしない。

 蔦が彼らを貫いたと思われた瞬間、彼らは消えた。硝子の割れるような音。

 幻だ。

 直後に現れたのは無数のアリーで、それらが一斉に口を開く。

「まずは自分に攻撃されるってどう?」

 無数の蔦がまっすぐ本物へ伸びる。

「姉さんはそんな下品じゃない」

 嫌悪を露わにして言い放つ。花たちが喜びにさざめいた。瞬時に編み上がった茨の籠が蔦からアリーと彼を守る。鎧のように。

「反応はわるくない、と」

 どこから高村の声。

「それじゃあ、耐久力は?」

 蔦が槍に、矛に、刀に、あらゆる金属に化けて遅いかかる。

「姉さん」

 アリーは頷く。すると茨は枯れて、二人はその姿を攻撃に下にさらすことになる。無防備な状態ながら、二人に焦るところはない。

 負けることはない――共有する気持ちは何者にも揺るがすことが出来ないほど深く根付いていて。

 ああ、とどちらからともなく息を吐く。

 この鬱陶しいやつらをさっさと片付けようと。

 ****は花園の片隅で花枝を豊かに伸ばす樹木の幹に触れた。

「やって、姉さん」

 アリーはたらいの水を掬うように両手を合わせて、その中に息を吹きかけた。薄紅色の花弁が辺りに舞い散る。

 好き勝手散るようでその一つ一つは飛んでくる無数の武器に確実に貼り付き、消失させた。残らず全てを。

 花弁はその光景に見とれているリサたちの鼻先にも到達し、

「!」

 全てのリサの輪郭が画像のようにブレると、一人を残して後は全て消えてしまう。

 いや、残ったのはリサではなく高村の方だった。

「早い……。けど会ったばかりだろうに何だってこうも長い間実体化させていられるんだ、おかしいだろ……」

 口に出してみて、高村は改めて違和感を覚えた。

 傅く者は契約者に使われてこそ真価を発揮する。だが目の前の相手はどうだ。茫洋とした目でこっちを眺めて突っ立っているだけだ。とても命令を下しているようには、高村には思えなかった。しかも盾になっている女はぞっとするぐらい綺麗な微笑をたたえている。そう、余裕があるのだ。

「……こりゃひょっとして、ただじゃ帰れねえかもな」

「不吉なこと言わないで」

 思わずごちるのに叱責が飛ぶ。けれどそれはまた、同じ事をリサも感じているということにほかならない。

 不安を煽るようにアリーの笑みが深くなった。

 

 

 

 やっぱり本当は夢なんじゃないだろうか。

 儘ならぬ思考で香織は疑問を抱く。自分が自分でないような感覚――けれど全くの他人に成り下がったのとは違う、その答えを探そうとすると「夢心地」と言う言葉に行き着いて、けれどやはり首を傾げてしまう。

 眼前の背中が遠く感じる。自分が心を預けたのは誰だっただろう。こんな無慈悲に血を散らす人だっただろうか。

 自身の血にまみれて呻いている高村を遠目に眺めて香織は思う。これでは死んでしまう。じぶんはただ元の世界に戻りたかっただけで……。

 アリーが空に向かって手を挙げる。振り下ろされたとき、高村の息の根は止まるだろう。

(だめだ)

 後味の悪い結末なんて望んではいない。

 気持ちを後押しするようにくだらない想い出が脳裏を過ぎる。休み時間にするくだらない話、放課後の買い食い、それに、

(……この前貸した千円まだ返してもらってないな)

 だからというわけでもないけれど、

「やめろ」

 絞り出した声に、アリーの肩が震えた。恐る恐るといったふうに後ろを振りかえる。自分の中から何か抜けていくのものを感じながら、香織はゆるりと頭を振った。

「もう……いい、やめて」

 振り向いた瞬間、がっかりした風に見えたが気のせいだったのかも知れない。アリーは文句を言うことなく頷いて、手を下げた。

 疲労感に座り込みたいところを腹に力を入れて耐え、香織は高村の所へ歩いていく。

「……高村」

「……その顔は卑怯だろ」

 てめえがやったくせに、と言いながら笑おうとして痛みに顔をしかめている。香織はどういう顔をすればいいのか分からなくて困る。とりあえず手を差し出した。

「高村、もういいだろ」

「そうだな……仕事としちゃあ充分だろうよ」

 なあ、と伺うのに「そうね」とリサの声だけが返る。高村は香織の手を取らなかった。ぐっと息を詰めて身体を起こす。

「リサ」

「分かってる」

「!」

 掠れ声が応えて、白黒の砂嵐が視界を塗りつぶす。

 何事かと瞬いているうちに視界は元の色ある世界に戻った。ただしそこは屋上ではなく、西日に染まる廊下で。吹奏楽部と運動部の声が聞こえてくる。

「……高村?」

「じゃあな」

 声はすれども姿はない。

「高村!」

 返事はない。

 どうしてか、もう会うことはないような気がした。

 そっと振りかえると、夕陽の中に彼女はいた。全てが夢ではないという証。

「……怒って、いる?」

 心許なげに手を組みあわせ、アリーが問うてくる。躊躇わず香織は頭を振る。

「……どうして?」

「だって……」

 やり過ぎたかも知れない、その自覚は彼女にもあるらしい。

「とりあえず……出ようか」

 残っていたって何もない。

 解放された喜びよりも疲労を引きずりながら一度荷物を取りに戻って、昇降口へ向かう。その間、アリーは一言も喋らなかった。

 下駄箱から靴を取り出すと、中に五百円玉が入っていた。

(……忘れてなかった)

 驚きと共に硬貨をつまみ出す。

 これで決定打になった。彼とはもう二度と会うことはないだろう。こっちがどう思おうと、向こうの意思は本物だ。

「……きみはこれからどうするの」

 振り返った先にアリーはいない。焦って辺りを見回す香織の耳に、くすくすと忍び笑いが聞こえた。

「ちょっと、どこなの?」

「ここよ」

「え?」

 そう言われても姿は見あたらない。

「心配しなくても傍にいるわ。実体化をといたから、今は空気のようなものなの」

「……そう、なんだ?」

「黙って勝手に離れたりしないわ。あなたと私は契約したのだから」

 微笑む気配がした。

 

 

◇◆◇

 

 

 あなたが呼んでくれたから。

 そう。

 

(……今度は間違えない)

 

 この縁に誓って。

 あなたを守る。

 今度こそ愛し抜く。

 絶対。

 

 

 

 

 


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