01


 

 今まさに越境せんとする幌馬車がある。

 馬蹄と車輪の音に混じる微かな鼻歌を聞き取って、馭者の男はそっと耳を澄ませた。

 

 

 

 

 

 ふんふんと、主人あるじのご機嫌な鼻歌が聞こえてきた。

 それくらいのことで廊下を歩くアッシュの足取りが狂うことはない。傍目には無表情に歩く青年にしか見えないことを当人も自覚している。

 今宵の宿はこの街でも指折り有名な老舗で、それゆえ彼の主人も上機嫌だ。

 宿は二階建てで、アッシュたちは上階の廊下突き当たり、奥部屋だ。本来そこは一見客には開かれない。

 決めておいた手はずどおり、部屋の扉を二度続けて叩き、一呼吸おいてもう一度叩いた。その間も聞こえてくる鼻歌は途切れない。

 中から扉が開かれる。

「おかえり」

 開いた隙間からアッシュと同じ色の瞳が見上げる。よくよく見てもそれくらいしか類似点のない地味な女性。しかし彼女が鼻歌の発生源ではない。

 アッシュは双子の姉・レイに向かってただいまの代わりに頷き返した。

 今宵の部屋は、贔屓の客の注文で「幼いお姫さまの部屋」風味に仕立てられている。無骨な家具はひとつもない。なにもかもが使い勝手よりも見映えを重視した構成だ。色使いにしたって。目に余るほどではないがいささか明るい。

 最初の日、アッシュは実家を思いだした。楽しい想い出ではない。ただ女性の多い家だったから、自然とレースやリボンといった、一口に可愛いや綺麗と賞賛されるものはよく目についた。

「戻りました」

 探さずとも主人の姿は容易に見つかった。

 猫足の椅子上、左手で行儀悪く両の膝を抱え、右手に持った大きな手鏡を覗き込む少年の姿がある。

「ウィル、食事は一時間後だそうです」

 淡々と告げれば、先に顔を見たなら性別を錯覚しそうな美少年が鼻歌をやめて、振り向いた。

 十代半ばほどの、幼さと大人へと向かう伸びしろが同居する曖昧さが生みだす儚げさ。年を経ても損なわれることない美しさも、見慣れたアッシュには最早どうってことはない。

 悪戯を思いついた子どもみたいに目を輝かせ、ウィルは戸口で控えるレイへ目配せした。

 可愛らしい見た目を裏切る、いくらか掠れた声が彼女の名を呼ぶ。喉を痛めているわけではなく、それが彼の地声だ。

「はいはい」

 それだけで意が通じた彼女がやれやれと肩を竦め、嫌そうな顔で懐中時計を取り出した。

「本当に一時間か、計っといて」

 それだけ聞くと結果を基にいびり、たかるのだろうと他者はきっとそう思う。

 否定はしないが、正解だともアッシュは思わない。彼の主人は意地は悪いかもしれないが、性根まで腐ってはいないと識っているから。

 

 

 

 この国の大臣が一人、その妻と通じたアッシュの主人がようやくこの宿を借りられるまでの仲になったの昨秋のこと。

 女は美しく少年と遊んでいるだけと思っているが、少年の腹づもりは違う。

 遊ばれているのは女の方で、それでいてウィルは彼女の夫たる大臣までたぶらかしているのだから。

 

「はい、あーんして」

 指にたっぷりとあまい蜜を絡ませて、ウィルは男の口許へと近づける。

 鼻の穴をひくひくさせて、昼間の威厳ある大臣の顔はどこへやら、男はウィルの手首を掴むと指に貪り付いた。

 服を着た男とは対照的にウィルはガウン一枚羽織っただけで、男の膝上にまたがっている。

「やだなあもう、がっついちゃって」

「そう言うな」

 くすくす笑う己より年下の男に憤るどころか、いい歳をして子どものように拗ねた表情してみせる男。

「そんなに僕に逢いたかったの?」

 そうされるのが好きだと識っていて、ウィルは小首を傾げてみせる。

 言葉よりも態度で示そうとでも言うのか、男が急いたように唇を重ねてくる。おぞましいそれをウィルは笑いながら受け止めた。

 重心が傾いてウィルの身体はソファーに倒れ込む。男の影が落ちてくる。

 腔内を舌でまさぐられながら、手持ち無沙汰に男の白髪が交じる短髪に指を梳き入れる。己の中で蠢く舌の熱さ、執拗さ。目の前にいるのは本当に人間なのだろうか。行為に集中しきれないせいでつらつら思考が渦巻いていく。

「なにを考えているんだい?」

 ようやく唇を離した男がそんなことを言う。その唇から伸びた銀の糸をぺろっと舌で断ち切って、ウィルは男の首後ろに腕を回した。

「もちろん、あなたのことだよ」

 嘘は言っていない。

 気をよくした男が鼻息荒く、ウィルの身体に貪り付いてくる。

「ああ、いつ触ってもおまえの肌は生娘のように滑らかだな」

「ふ……っ」

 平らな胸をきつく吸われる。ウィルの白い肌は、どういうわけが痕が残りにくい。だから男は支配欲を満たそうと、何度も繰り返す。

 慎ましい胸の頂きをこれでもかと捏ねて「ああ、可愛く育ってきた」と熱い息を吹きかけてくる。

 繰り返される行為はウィルの感度を確かに底上げしていて、いつも感情は置いてけぼりに身体の方が快楽を素直に追いかける。

「そこばっか、やぁ……」

「いい、の間違いだろう?」

 泣き言を漏らすウィルを男はおかしそうに笑う。

 男は左の指の腹で熟れた頂きを摘まみながら、ウィルの下肢を視線で嬲った。ゆるゆると雫をこぼす昂ぶりを見て、いやらしく舌なめずりすると、大きな舌で雫を舐めあげた。

「ひゃっ……」

 そのまま口淫をはじめた男の頭を押しやろうと手を伸ばすも、快楽に冒され力の入らない手ではままならない。最早押し返すというより引き寄せているようにもとれる、児戯にも等しいやりとりだ。

 己の施しで赤く肌を染め、ろれつも怪しく喘ぐ美しい少年の姿は否が応でも男の欲を高めていく。

 この少年が欲しい。

 けれど彼が決して己だけのものにならぬことを男は知っていた。

 どうしても彼が欲しくて、己の持つ権力を使って調べさせたことがある。

 これが何度やっても上手くいかない。

 調査員が必ず男の元に戻ってこないのだ。籠絡されたか、消されたのか。遠回しに少年に問うてみたことがある。

「あんまりが業が深いと戻ってこられなくなっちゃうかもよ?」

 少年は困る風でもなく、いつも男に応じるようにうっそり笑ってそう告げた。いつもと何ら態度の変わらぬことが、男にはぞっとした。

 その日は少年の底知れなさを改めて思い知らされた。己よりも年下の彼が悪魔か何かのように恐ろしいと思った。

 それでも彼から遠ざかる選択肢を蹴っ飛ばしたのは他ならぬ男自身だ。

 ――彼が欲しい。

 その一心で少年を貪り喰らう。

「ああ、ああ、おまえのなかはいつも正直だな……っ、わたしが欲しいと絡みついて、くるっ」

「はあ……深い、いっ……そこぐりぐりしないでぇ」

「そうか? もっとしてやろうな」

「ぃやあ、ああ、あ……っだめ、……いっちゃ、う、からあああ」

「なら、これでどうだ?」

 だらだらと雫を零すの根元を男は指の環でくびる。

 ウィルの喉がひくりと動く。

「でもこれだとわたしがお前を愛してやれないからね」

 男はウィルの手をとって自分で握らせる。

「……いじわる」

「いきたくないんだろう?」

 嘯いて、奥を穿つ。

 ウィルは嬌声混じりの乾いた笑みを浮かべる。

 最早自分は陸に打ち上げられた魚だ、どこにも逃げ場などない。ああでも最後に泳ぐそれをみたのはいつだっただろう、そんな思いが過ぎったが、揺さぶられる身体ではあっけなく思考は霧散していった。

 

 

 

 隣国へ越境せんと走る馬車が一台。

 馬の手綱を握るのはアッシュだ。荷台の幌の中には主人と姉、それから仕事道具なんかが積まれている。

 一行の表向きな肩書きは「旅芸人」となっている。

 大臣の妻ともそれが縁で知り合った。

 ――顔の似ていない奇術師三兄妹。

 客引きの末っ子は大層な美少年らしい――その噂に尾ひれが幾つ付いたのか。ともかくウィル達のことは大臣の妻の耳にまで届き、三人は余興のために彼女の元へ招かれた。

 妻の隣には夫ではなく愛人が寄り添っていた。

 まったく事前の情報どおりで何の驚きにもならない。

 大臣の妻は美少年を愛ではしたが、さすがに子どもの手を出すような特殊な性癖はなかったらしい。

 愛想のいい美少年に気を良くした彼女は、もしまたこの国に来るときは使ってくれていいと、彼女が贔屓とする宿を紹介してくれた。

 それが昨秋のこと。

 ウィルは彼女に無邪気な子どもらしい愛想を振りまきながら、その裏で色目を使い、大臣を籠絡した。彼は妻と違い、躊躇の境界を容易く踏み越えてくれた。

 それも妻への復讐という、ウィル曰く安い動機、だったが。

 大臣は妻を愛していた。

 ゆえに彼女のことなら何でも許した。本当はして欲しくないことでも。愛人とどこで何をしようが目を瞑った。たとえ自分がねだられて買い与えた服を着て、自分名義で借りた宿で誰と会って、自分が帰宅したときに不在であろうとも、赦した。

「……奥様はたいそう可愛がってくれました」

 知人が酒宴の余興で招いた旅芸人。そのとりわけ美しい少年が、耳元で囁いた。少しばかり酔いが回った身体に、彼の少し掠れた声はなんとも魅惑的に響いたことだろう。

 すっと身を翻す彼の腕を掴む。どう考えても少年の倍以上生きているというのに、大臣という地位と名声まで得ているにも関わらず、少年の瞳を見たなら言葉が何も浮かばない。 言葉を探しあぐねるさまを見かねたように、ウィルが嗤った。

 どこか子どもらしくない笑みに、大臣は囚われた。

 すべてがウィルの目論見どおりだ。

 

 

 抑揚の欠けた下手くそな鼻歌が聞こえている。

 主人が歌っているときは、彼が己の感情と折り合いを付けているときだとアッシュは識っている。

 一番幼い身体をして、一番働いているのはウィルだろう。

 幌の隙間からレイが顔を覗かせた。

「代わるわ」

 耳を澄ますと鼻歌が止んでいる。

 アッシュはゆるやかに馬車をとめ、姉と馭者を代わる。音をさせぬように荷台に乗り込めば、薄毛布にくるまる主人の姿があった。荷台の奥隅で小さく横になっている。

 アッシュは彼の対角線を陣取った。

 見た目をいえば弟のようなウィルだが、実際の歳はアッシュより七つは上。とうに成人している。訳あって彼の姿は未だ少年の域を出ない。出会ったころはアッシュの方が身体は小さく背も低かった。

 あの頃には確かになかった想いをアッシュは今、主人に対して抱いている。

 初めて抱いた感情はアッシュの宝物だ。

 

 

 

 ※

 

 閨の睦言にしてはそれはいささか物騒であった。

「奥様の新しい愛人、気をつけた方がいいよ」

 浮かれた熱がすっと醒める。

 大臣は隣で寝そべる少年に眉間の皺を深める。

 少年は気怠げに身体の向きを変え、婀娜っぽく笑んだ。到底何も知らぬ子どものする顔ではない。

 大臣の喉が鳴る。

 少年は時折こんな顔をして、大臣がまだ知らぬ有益な話をもたらすことがある。一度ならず何度か大臣はそれに助けられ、だからこそ余計少年を、その背後を知りたいと思う。

 しかしそれはいつも上手くいかない。いつの間にか少年は彼の手が届かぬ所へ消えている。

「あなたの足を引っ張るつもりかと思いきや、この国をひっくり返す機会を探っているみたいだから」

 果たして彼の言葉は真実だった。

 愛人を捕らえてみれば、妻は「知らなかった」と泣いて夫に縋った。

 彼女の泣いている姿をみるのはいつ以来だろう。ほろほろと涙を流す姿は歳をとってもやはり美しい、少なくとも彼の目にはそう映るのだ。愛を誓ったあの日から、彼にとって妻は唯一無二。いくら少年に溺れようと、それだけは変わらない。

「きみだけを愛している――」

 

 抱擁の向こう側で、妻は笑う。全部、ぜーんぶ知っているのよ。

 でも、あなたが最後に選ぶのがわたしであるのなら、わたしもあなたを赦すのよ。

 女は分かっていて、試すのだ。

 

 

 

 

 

「――できる限り内情を入手して、目障りを排除しろ、だってさ」

 情報網からの伝達文をウィルがたき火へ投げ捨てる。日の暮れ、補給のために滑り込んだ町で受け渡された文はあっという間に灰になった。

 補給を済ませた一行は町を出てしばらく街道を走ってから、野営の構えをとった。簡易な設営を済ませたところで、ウィルが文を億劫そうにひらいたのがついさっき。

 ウィルたちの仕事はいわゆる諜報活動と呼ばれる類のものだ。

「大臣たちの目は僕がひきつける、二人は情報を集める。ま、いつもどおりだな」

 作戦もくそもない、と顔に似合わず品のない言葉使いをするウィルを咎めだてする人間はここにいない。

 アッシュもレイも、ウィルという人間そのものに仕えている。行儀だとか言葉使いだとかそんなものに今更左右されやしない。

「宿は夫人が紹介してくれたところがあったな……確か、」

「フラウ、ね」

 すかさずレイが告げる。

「それだ。それからあとは礼状――」

 言いながらもウィルは器用にたき火の上に枠を組んで三脚を作る。アッシュは馬車の荷台からさっき町でかった水袋を運び出した。この辺りは水源が限られていて、旅のものは水を買う以外で手に入れるのは難しい。適量を鍋に移したところで、レイが蓄えの干し肉と町で恵んで貰った屑野菜をさらに細切れしたものそこにをいれる。水の購入を優先した結果、レイは財布の口を早々に締めてしまった。だが彼女の主人は彼女の性分などとっくに分かっているから、好きにさせている。

「やった、今日はレブルの実が入ってる」

「珍しく安かったから」

 素っ気なくレイは言うが、姉が気を利かせたのだろうとアッシュは思う。レブルの実は親指ほどの大きさの、食感は芋に似た果実だ。小粒なのに腹持ちがよく、長期移動の荷に忍ばせるものは多い。にもかかかわらず、繊細な果実は取れ高が芳しくない。だから店先に並べばあっという間に無くなってしまう。

 ウィルは食べ物をえり好みしないが、レブルの実を見かけたら、それがまだ畑で樹になっていたとしたらこっそり頂いてしまうくらいのことはする。

 よくやった、という言葉の代わりにウィルが笑う。レイは知らん顔で、火に掛ける前の鍋を木匙で一混ぜした。

 姉の促しで、アッシュは三脚に鍋を吊す。

 食べられるようになるまでには、まだまだ時間が掛かる。

 手持ち無沙汰になった主人が、立ち上がるのを従者二人は視界の端に入れつつ、おのれの作業の手は止めない。

 そのうちふんふんと、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。

 もういつものことだから、ふたりとも確認しには行かない。

 今ごろ主人は馬車の荷台で足をぶらぶらさせて、手鏡を覗き込んでいるだろう。

 あれは自分の顔に見とれているのではない。そうアッシュが気付いたのはいつの頃だったか。

 ウィルはただ、鏡に映るものに面影を見出しているだけなのだ。

 

 

 

 


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