大事なものはただ一人。
姉だけ――それが覆る日が自身に訪れるなどまさかアッシュは想像だにし得なかった。
怯えの色が混じるウィルの眼に今、自分が映っている。背骨の辺りにぞくぞくとするものが駆け抜けて、アッシュは伸ばした指の背でウィルの頬を撫でていた。
ウィルの顔が強張る。
怖がらせたいわけじゃないのだ。そう思う側から表情の変化を楽しむもう一人の自分がいて、アッシュを戸惑わせる。
勝手に流れ出した涙は止め方も分からなくて未だ眦から流れ続けていた。
「おまえは僕とどうしたいんだ」
主人の声は硬い。弱いところを隠すための作り声だ。
アッシュの答えは決まっていた。
「ウィルが欲しい」
「……それは……僕と寝たいってことか」
「それもある」
さっと青ざめたウィルがアッシュの手をはね除けた。
「僕はお前とは寝ないぞ」
断固とした意思を乗せた言葉を鋭い眼差しとともに叩きつけてくる。
きっとそう言うだろうとアッシュは思っていたから、怯むどころか気が抜けた。
「なんで、笑うんだ」
「俺、笑っていますか」
「……」
ウィルは答えず、むっつり黙り込んだ。
「……そうか、頑張らなくても笑えるのか」
アッシュはぺたぺた己の顔を触ってはしみじみ呟く。表情筋が死んだようなアッシュだが、仕事によっては作り笑いくらいはする。それも形になるまでには相当の時間を要した。
「俺が自然に笑えているんだとしたら、ウィル、それはあなたのおかげです。あなたが俺を、俺たちのよき主人になろうと務めてきたから」
「……僕はただ約束を果たそうとしているだけだ」
「あなたはそうかも知れないけれど、俺は違う」
従者を庇護するのは主人の務めのうちに入るだろう。けれどウィルのそれは、まるで弟妹にでもするような、そういったものであったと今のアッシュは己の中で位置づけている。
本当は全く違うのかもしれない。
けれどアッシュも、それにウィルだって知らないようなものだ。
家族のありかたなんて。
「あなたが俺たちを大事にしてくれるから、俺は自分の世界の狭さを識った。俺の世界の色彩はずっと姉だけで完結していたけど、そこにあなたが増えた」
狭い部屋に閉じ込められていた間、アッシュを顧みてくれたのはレイだけだった。だけど彼女は毎日アッシュの所へは来られない。去り際の「また来るから」を頼りきるにはアッシュの心は脆くて、高望みはすまいと心の中ではいつも「さよなら」していた。
暗闇に塗り潰されそうな淡い色の隣に色が増えた。
最初は薄いそれが重ねづけされて存在を主張し始める。
「守られるのは嬉しい。あなたが笑うのも、怒るのも。それが俺に対してなら尚のこと、俺に向けられるものは何でも欲しいし……だから、俺を遠ざけないで」
ウィルの右手を両手で包む。
「レイにだけ許すのが、俺には耐えられない」
ウィルの中で渦巻く悪感情がどんなものであろうと構わない。たとえ一端でも目の当たりに出来るレイがいつからか羨ましいと感じるようになった。姉を妬んだ己にアッシュは驚いた。狭い部屋の中に閉じ込められていたときでさえ、そんな思いを抱いたことは無かった。
二人で一つだと思っていたし、優遇されるのがレイであっても当然のことだと受け止めていた。
でも本当はそうではなかったのだ。
ずっと気付かなかっただけで、そう、あの日ウィルから名前をを貰ったときにもう、アッシュという一個の人になってしまっていたのだ。
「俺はウィルが欲しいんです」
ウィルの視線から逃れるようにアッシュが目を閉じた。
「……お前とは寝ないって言った」
「今更一回寝たくらいで幻滅しませんよ。あなたの酷い姿どれだけ見せられてきたと思っているんです」
それこそあられもない姿を見てきたし、今度は回復しないのでは無いかと気を揉んだ時もあった。
「欲しい」いうのは性欲云々だけの話ではない。その辺がどうにも伝わってないようでもどかしく、アッシュはウィルの双肩をとんと押す。ウィルの身体が柔らかく寝台に沈むのを見下ろして、額をくっつけた。
「俺を大事にしてくれるのもいいけれど、たまにでいいから大人になった俺も見てください」
ただ甘やかされるだけではいたくない。
ウィルが抗議の声をあげる前にその唇にかぶりついた。
「っ……ぐぅ、ンんん~っ!」
ウィルが全力でアッシュの肩を叩いてくる。ちょっと痛いけれど、無視しておく。
強引に唇を舌で割り開くも、固く閉ざされた歯列がその先への侵入を拒むから、耳たぶをふにふにと指の腹で揉んでやれば、ウィルの意識が一瞬そちらへ逸れる。
緩くなった噛み合わせの隙をついて潜り込んだ。
粘膜と粘膜をすり合わせて、ああとアッシュは目を閉じる。切望する温もりの一端に今触れている。じんと胸の奥が痺れるそれを感動だとは知らず、夢中になって唇を、腔内を貪る。
こんなにも人に触れたいと思うこと自体初めてで、焦れる心を押さえつけるのに苦心する。
「……ウィル、だいじょうぶ?」
「…………ぅるさい」
頬を上気させ、ぜいぜいと喘ぎながらウィルが睨み付けてくる。唾液でてらてらな唇で、口端から伝い落ちた痕もあっては、迫力も何も無い。今にも涙が零れてしまいそうな潤んだ瞳も胸にぐっとくる。
「だいじょうぶそうだからつづけますね」
「おまえが判断するな、僕はしないって言ってる――」
「本当に?」
真上から瞳を覗き込めば、言葉を吸い取られたようにウィルが喘いだ。瞳が逃げ場を探すようにぶれて、じわりと目尻から感情が滲みだしていく。
葛藤が瞳に渦巻いていた。
「どうしてそんなこと言うんだよ……」
「あなたの中に少しでも俺を意識してくれるところがあればって思うから」
主人だから、だから赦す。そんな一言で済まされたくない。
「一度寝たからって、何も終わりませんよ、きっと。あなたが厄介払いしない限り俺はあなたの従者だし、俺もそうでありつづけたいし」
頬に、額に、触れるだけの口づけを落とす。
「俺はわがままですか?」
口端をわななかせたウィルが、ゆるゆると頭を振る。その拍子に零れた雫を衝動的に舐めとったアッシュの頬をウィルの手が包んだ。
「いいよ。……わがままなお前も悪くない」
もし諦めたような顔でこれを言われたら、アッシュは行為を続けなかっただろう。
出会った頃の、まだ隠れて泣いて頃の、そんなウィルの面影を見つけてアッシュは目を細めた。あの頃のウィルは彼の中から消え去ってしまった訳では無かったのだ。それがどうにも嬉しくて、アッシュに火をつけた。
ゆるゆると腰を動かし、アッシュが捏ねたおかげで赤く熟れた胸の頂きに吸い付く。
「あ。中、びくってした」
「……っ、吸いながら喋るのやめろ」
そう言われると続けたくなるのは何故だろう。
「くしゅぐったい?」
「ぁ……っ、ん、そうだ、よ」
「ふ~ん」
右を舌で転がしながら、左を指の腹で押したり摘まんだり。
「な、なんにも出ないぞ」
「……そんなこともないのでは。ウィルのここはずっとだらだら、栓が壊れたちゃったみたいで……気持ちいいんでしょう?」
拭いとるように鈴口に向かって親指を這わす。
「かわいいなあ」
自然と零れた言葉を拾ったウィルが顔を真っ赤に染めた。痴態を隠そうとでも言うように顔を両手で覆ってしまう。
「ウィル、なんで隠すの、顔見せて」
「お前が変なこと言うからだろっ、さっさと動けよ」
ふむ、とウィルは考えた。
最初からがっつくのもどうかと前戯に時間を掛け、じっくりじっくり事を進めていたのだが、どうにもお気に召さなかったようだ。
まさかウィルが「かわいい」という単語だけに反応した結果の照れ隠しだとアッシュは微塵も思っていない。他者からさんざん、やれ天使だの可愛らしいだのと言われている彼が、今更自分が言った言葉で頬を染めるだなんて思いもしないのだ。
「じゃあ、遠慮無く」
抜ける手前まで引き抜いてから、ぐっと勢いよく腰を打ち付けた。
「……!」
衝撃にウィルが目を見開く。
「ウィルのいいところいっぱい突いてあげますよ、……ここ、とか?」
「あ、あ……そこ、」
「ここ? すき?」
「あっ、ぅ、うん……すき、だけど……ぁ……!」
ぎゅっとウィルの手が何か堪えるように敷布を握れば、身体に見合った大きさの陰茎からぴゅくっと精が放たれる。
ウィル自身の腹に散ったそれをアッシュは妙に気になって舌で舐めた。さっき口淫したときは吐精すんでのところで強制終了させられてしまったから、知りたいと思ったのだ。
「あ、おい」
気を飛ばしていたウィルが気付いて血相を変えるも時既に遅し。
もごもごと口に広がる青臭さと格闘して、アッシュは抱いた感想にうん、と黙って頷いた。
同じだな、というのが第一の感想だ。
味なんて変わらない。
「無言で頷くな、何か言えよ」
「……ウィルも男なんだなあって」
「そんなの分かってることだろ」
「そう、ですけど……ウィルのだったら美味しかったりするのかなって、でもそんなの幻想でしたね。まあ不味くてもウィルのだったらいけますけど」
「…………あっそ」
「さて、もう回復しましたよね?」
こうしてくっついて喋っている瞬間も、吐き出したい熱が燻り続けている。
「今度は一緒にいきましょうか?」
アッシュは魔法の紐でウィルの陰茎を縛り上げた。
※
「本当に?」
覗き込んでくる瞳が、心の内を暴かんとする。
ひた隠しにしてきた浅ましい願望などとっくに知られていたんだろうか。
希望とか涙とか、余計なものは捨ててしまおうと決めたときから、ウィルにとってアッシュはまた特別な物になって。
いつまでも些細なことで揺れる感情を持て余すそんな自分が嫌で、アッシュのようになれたらと思うからこそ、ひどく気持ちが荒むときは彼を自分から遠ざけた。
だけど遠ざけたそばから後悔するのだ。こんな姿は目指す「よい主人」からはほど遠い。
こんなみっともない自分は彼の目にどう映っているだろう。
優先順位はレイの次だと知っていて、それでいいと思っていたはずなのに、秤の比重がもう少し自分に傾かないかと願ってしまう。
そのまっすぐな想いが自分にも欲しいと、渇望する。
ウィルの心が弱り果てるほどに願望は顔を覗かせるから、アッシュを遠ざけるしかない。
お前とは寝ない――本心だ。
父親ではあるまいし、自分の従者と関係を持つなどありえない。
「一度寝たからって、何も終わりませんよ、きっと。あなたが厄介払いしない限り俺はあなたの従者だし、俺もそうでありつづけたいし」
いつもの読めない表情でアッシュが言う。
……ほんとうに?
さっきの言葉を返してやりたいと口を開く前にアッシュが言った。
「俺はわがままですか?」
……いいや、我が儘なのは僕の方だ。
アッシュがこんなに自分の考えを喋った日があっただろうか。
あの日捨てたといった彼が今、こんなにも言葉を尽くしてくれている。誰でも無い、この自分に対して。
ああ、それがどうにも心地よくて、ウィルは手を伸ばしていた。
抜けていく楔を中でぎゅっと締めつけてやる。
「……っウィル、」
眉根を寄せて、アッシュが呻く。
ウィルはアッシュの首後ろへ手を伸ばした。ぐっとその身体を引き寄せて、耳元へふっと息を吹きかける。
「伊達に変態どもの相手をしてきたわけじゃないからな、啼かされるだけのお人形だとは思うなよ」
そうは言って縛られた陰茎は痛いくらい張り詰めているし、気を抜けば今にもいってしまうだろう自覚がある。
腰を揺らめかせ、今度はウィルがアッシュを押し倒す。
「欲しいだけあげる。だから、僕にもちょうだい」
アッシュの心をください――音にしたのか、心に留めたかは分からない。
自分からアッシュに口づけた。わざと水音を立てて呼吸を貪る。どちらがどちらを喰らい尽くすのが先か。叶うなら喰らい尽くされたいと、酸欠でクラクラする頭の片隅でウィルは思う。
この瞬間アッシュと融けて混ざってしまいたい。そんな乙女のような思考回路が自分の中にあったことがおかしかった。
やがて意味のある言葉はどちらも紡げなくなって、時も忘れてひたすら行為に没頭した。
「……ねえ、レイは知ってるんだよね」
「はい」
魔法で出した水差しから注いだグラスをウィルに渡して、アッシュは頷いた。
宿へ戻ってきたアッシュを見て「ひどい顔」とレイは言ってきた。
「きっと気付いてないと思うから教えてあげる、あなたがウィルに抱いてるやつは俗に言う「恋」ってやつよ」
「え、」
「あなた、思っていることみんなウィルにぶちまけてきなさい。あの男は繊細なくせに頭が固いから、うまくやるのよ」
起こす前に逃げられないようにしておくのよ、なんて助言のためにウィルの寝ていた部屋は魔法でここではないどこか、にある状態になっている。
姉は、自分に嘘を言わないとアッシュは識っている。
整理のつかないアッシュの想いなど姉にはお見通しだったらしい。姉の偉大さを改めて思い知った。
レイがずっと「とらないで」発言を気にしていて、罪滅ぼしの意識が働いた故の観察眼からきたものだとはアッシュは知りもしない。
「……いちばん成長してないのは僕か」
しみじみ感じ入るようなウィルの言葉に、そわりとして顔を寄せる。
「目に見えるかどうかの違いですよ」
「……従者のくせに生意気だな」
「あなたの従者だからですよ」
そっと唇を触れあわす。
「……調子に乗るなよ」
そっぽ向いたウィルが照れ隠しのように毒づく。
「そろそろ魔法解け。レイが心配するだろう」
「はい、ウィル」
名残惜しいが、限られた時だからこそ喜びはいや増すのだ。
※
今まさに越境せんとする幌馬車がある。
馭者の男はそっと耳を澄ませた。
最近は調子外れな鼻歌が聞こえてくる回数が減っていて、今日もどうやら主人の機嫌はいいらしい。つい主人を案じて耳を澄ます癖はそう簡単にはぬけないようである。
がたごとと馬車は走る。
相変わらず任されるのは嫌な仕事ばかりだし、属す地位も国も環境も変わらない。
変わったのは主従三人の関係性くらいだろう。
ちょっとお互い遠慮が無くなった、それだけのことが日々を明るく照らす。
アッシュの世界を染めるのはもう姉だけではない。
ウィルの傍が己が居場所だ。彼が望む限り望む場所についていくし、彼のために力を尽くす。以前と何も変わっていない? そんな事は無い。自覚しているかどうかは大きな差がある。
色づいた世界を讃えるようにアッシュは口笛を吹いた。