コーラフロート


 

 

 差し出されたフォークの先を、秋は戸惑いの目で見つめた。

「はい、あーん」

 一口大に切り取られたチョコレートケーキ。

 おいしいのはわかっている。何と言っても自家製、そう、自分で作ったのだから。

「……ぁの、ナカムラさん」

「ふふ、たまには人に食べさせて貰うのも味を客観的に感じられていいんじゃないかな?」

 確かに一理あるが、だからっておとなしく従えるかは話は別で。けれどどうやらナカムラにフォークを下げる意思はないようだ。

 本音を言えば、好きな人にされて少し、舞い上がっている。だけどそれを悟られてはいけない。

 秋は腹をくくった。

「あー……」

「はい、どうぞ」

 スポンジが口の中に押し込まれる。

 よくできました、と言わんばかりの微笑がこそばゆく、秋はナカムラからさりげなく目を逸らす。

(……あま、)

 口の中が甘ったるい。動揺した挙げ句、それしか分からない。自分が作ったケーキなのに味の判別も上手くできないんだから恋というやつはおそろしい。

 そのままそのフォークで飲食を続けるナカムラ。

 顔にこそ出さないがまるで学生のように秋は興奮していた。

 今年四十五になったというこの男は父親の友人で、秋が経営する店の大家だ。

 ぱっと見は三十代で通用するだろうか。

 どことなくインテリっぽい雰囲気はかけている眼鏡のせいだ。本人曰く、眼鏡は伊達。コンタクト併用なんだとか。子供っぽい顔つきを誤魔化すためにかけているらしい。だったら髭でも生やせばいいじゃないかと思うところだが本人曰く、望むようにはいかなくて諦めたそうだ。

 ピアノでも弾いていそうな繊細な指が口の端についたチョコを拭う。

 惚れた欲目かな、秋の目には彼の仕草がいちいち性的に映る。目の毒だ。

「ごちそうさま。ところで春くんは?」

「ゆきちゃんが迎えにきてたから先帰らせました。どうせもう少ししたら店終いだし」

 秋には双子の兄がいて、二人でこの洋菓子店をやっている。店を構えるとなったとき、商店街の端にあるこの場所を旧知のナカムラから紹介してもらった。

 秋たちは双子ではあるが容姿はちっとも似ていないので、自分たちから言わない限りそこへ辿り着く者は少ない。性格も静と動くらい違う。菓子が好き、甘い物が好き。いわゆる利害に一致で繋がっていると言ってもまあ、過言ではない。

 ちなみにゆきちゃんとは春の高校の同級生だ。

「ふーん、尻尾振ってついてったわけだ」

 様子が目に浮かぶのか、小さく笑うナカムラ。まったくその通りの光景だったから、秋も頷き返す。

「ところで君たちは年末年始どうするの?」

「実家です。例年通りですよ。 ――ナカムラさんは?」

「いつも通りさ。店開けてるから暇だったら来るといいよ」

 ナカムラは毎月二十六日、様子見と称して閉店一時間前に家賃回収にやってくる。

 この店は客用の飲食スペースは設けていないから、おもてなしは必然この従業員休憩室となる。従業員休憩室、なんて言えば聞こえはいいが、要は自分たちが着替えたり休憩するだけの狭い空間で、そこにナカムラが来たときだけ折りたたみの机と椅子の広げる。

 帰って行く後ろ姿をしばし店の中から目で追って、秋は「CLOSED」の札をドアにかける。

「……さて、片付けますか」

 名残惜しく、ナカムラが使ったカップの縁を指の腹でなぞって――。

 

 

 

 とある雑居ビルの前で秋は足を止めた。

 駅前周辺にありふれた五階建てのそれは、一階に学習塾、二階はネイルサロン、それより上は看板だけ見ると空いてるように思える。

「さむ……」

 顔の前に手を持ってきて、息を吐きかける。白く濁る吐息に苦笑する。わざわざそんなことをしなくても寒いことはわかりきった事実だというのにやらずにはいられないんだから、いったいお前は幾つになったんだと肩を竦める。

 二十五歳。次の誕生日で六になる。

 そういえば初めて会った時のナカムラの歳だ。

『――今日はいいところに連れていってあげる。けど、母さんには内緒だぞ?』

 友人に会うのだと妻が朝から出かけていったのをこれ幸いと考えたのか、あの日、父は唐突に切り出した。

 内緒、秘密。

 子供だろうが大人だろうが、胸がときめかないものがいるだろうか。

 当時五歳の双子を興奮させるに充分すぎるほど父親の提案は魅力に溢れていた。きらきら目を輝かせる子供たちに父が早まったかと一抹の不安を感じていたなど知りもしない。

 結論だけいえば、二人が連れて行かれたのは一軒の喫茶店で。

 そこでナカムラと出会った。

 

 

 ビルの階段をあがって三階。

 テナント入り口は壁の木目に埋もれていた。

 秋はじっと目を凝らして、上着のポケットから取り出したカードを切れ目に差し込んでスライドさせた。

 ピッ、と電子音が鳴って壁の一部が消える。いや、ドア部分が横にスライドだけである。

 初見殺し、というか一見さんお断り仕様なのだ、この店は。

 初めて来た時、隣で春が「うわ、うわー、かっけえー。おい、しゅう、みたか今の?」と興奮していたのを思い出すと今でもおかしくてしょうがない。「みた。しゅん、うるさい」なんて言いながら自分もしっかり興奮していたっけ……。

 中は壁から小物に至るまで飴色でまとめられている。天井では大きなシーリングがまわり、窓に使われているのは模様入りの磨りガラス。

 入って右奥がカウンター席、正面左隅に雀卓が一つ、入って右手の卓球台の上には誰かの忘れ物らしい楽譜とドラムスティック。客は壁際に重ねて置いてある椅子を好きに使っていい。ドラマとかで見かける物が置けるトレーみたいなのがくっついたあれだ。

 初めての客はとにかく面食らう。

 喫茶店と聞いてやってきたはずなのにここは何屋なのかと。訊かれたとして、いやまあ喫茶店は喫茶店なんですよとしか秋も返せないが。

 ここはナカムラが趣味でやっている「喫茶店」だ。経営者が「喫茶店」と言うのだから客は受け入れる以外に何がある。嫌なら来るな、これに尽きる。

 先客は二名いた。

 元日なのに近くの高校の制服を着た女の子が一人、窓辺で読書中。もう一人は卓球台の下、寝袋で寝ていた。通り過ぎるまで存在に気付かなかったから、ぎょっとした。

 そんな秋を見ていた、カウンターの客用スツールに腰掛けるナカムラが小さく笑う。

「さっき寝たばかりなんだよ」

「……どなた?」

 ナカムラの声に親しげな匂いを嗅ぎ取って、秋は隣の席に腰掛けながら問う。

 寝袋から覗く顔に秋の知らない顔で――それはそうだ、日参できる身分ではなし、客の全てを把握しているわけじゃないのだから当たり前で、けれど知らないことが不安をかき立てる。

 この男はナカムラとどういう関係なのだろう。自分の父親と同じか少し上くらいの世代に見えるが……。

「あー、それね。ぼくの高校の同級生」

「え――」

 寝袋を振りかえる。

「初詣帰りにばったり出くわしたんだ。すっごい小汚い格好でさ、二度見、ううん三度見して間違いないって確信したから声かけたんだよ」

「へ、へえ?」

「こいつ、リストラされたの家族に言えなくて、家に帰りづらくなって帰れなくなってそれから五年だって」

「……俺に喋っちゃっていいんです?」

「うん、帰ろうってやっと決心がついて帰る途中だったらしいから。どうせならうちで風呂入って行きなよって言ったんだ。なんだかんだ話してたらねむーくなったらしくて寝かせてくれってあの状態さ」

「……なるほど」

 しばらくは起きてこないのか、な。

 後ろ髪を引かれつつ、姿勢を正す。同級生、きっとただの同級生さ。まさかまさか恋人だったなんて過去は聞きたくない。

 動揺を隠そうと無意識に唇を舐めていた。

「ご注文は?」

 ナカムラが席を立つ。

「コーラフロート」

 躊躇いなく口にすると、ナカムラがそれはないと眉を顰める。

「寒空歩いてきてそれ?」

「でも俺があったかいコーヒーって言うのもおかしいでしょ」

「そうだけどさあ――」

 言いながらもナカムラはカウンターの向こうに廻る。

 室内はほどよく暖房が効いていた。

 秋はこの店で最初に注文するものはコーラフロートと決めていた。暑かろうが寒かろうがそう決めた。それからそれを覆した日はない。

 だけど好物じゃあない。

 上着のポケットから出したかじかんだ指先を擦り合わせる。外では雪片がちらついている。積もるような感じではないが、こんな日にコーラフロートを頼む奴の気が知れない。そう思ってしまう感覚はちゃんと持ち合わせているのだ、秋だって。

「はい、お待たせ」

「ども」

 グラスの縁に沿って、ストローを遊ばせる。氷溶けたら味薄くなるんだよなあ。一口啜って、冷たさと弾ける炭酸に閉口する。冬場の飲み物じゃねえよ、やっぱ。

 それでも続けているのはひとえに、ナカムラの心に残りたいからだ。

 始めた頃は単純な動機だった。「ご注文は?」「あれ」それだけで通じる常連客って格好良くね? そこに恋愛なんて爪の先ほども混ざっていなかった。

 あの頃にはどうやったって戻れない。

「あらためまして。あけましておめでとうございます」

「こちらこそ、おめでとうございます。なに、お年玉欲しくて来たわけじゃないよね、元日早々」

「くれるんですか?」

「欲しいの?」

「そりゃあ、くれるなら」

「現金だなあ」

 ナカムラがカウンターをまわって、こっちへ戻ってくる。手には客用でなく、明らかに私物だろうアヒルが描かれたマグカップを携えて。

 横を過ぎていく際、懐かしい匂いがした。

「なんですそれ。……麦茶?」

「あたり。あったかいの好きなんだ」

「俺、夏にしか飲んだことない」

 当たり前のように冷蔵庫に入っているのを当たり前のように飲む。昔は考えもしなかったけれど、今はそれが母親によるものだと分かっている。未だ実家暮らしなのでその恩恵を今日も今日とてありがたくあやかっている。

「こっちもおいしいよ」

 にかっと笑ってマグカップに口をつける。その顎から首にかけての曲線を秋はさりげなく、そしてしっかりと目に焼き付ける。

(…………たまんねえな)

 秋は、春と比べて顔から感情が掴みにくいと言われることが多い。それでも人というのは時に鋭い洞察力を発揮するから、今この時、秋の顔を見た者がいたなら「あ、こいつたぶん……」と何か察したかもしれない。

 残念というか幸いというか、ナカムラの関心は麦茶の方にあったので全く気付かれていない。

「はい、ナカムラさん」

 コーラの上のアイスをストローのひらいた先で掬って口元に差し出す。

「ぼくが食べてどうすんのさ」

「ふふん。ほら、早く」

 ストローはそのままに、にやにやと口元に笑みを浮かべれば。

「……あー、なるほどね。このあいだの仕返し?」

「そうです」

 しょうがないな、とナカムラが口を開ける。

(正月からごちそうさまです)

 アイスがナカムラの口内に消えていく様をつぶさに観察し、秋は悦に浸る。やっぱり自分は食べさせる側だなと再確認して、アイスをひとすくい、今度は自分の口に放り込む。

「……あれ? このアイスいつものと違う……?」

「あ、わかった? やっぱり職人の舌はごまかせないか……」

 ナカムラは悔しそうに唸って、天を仰ぐ。

「え? ちょっとこれナカムラさんが作った……?」

「そ。ユキヤがインフルエンザでダウンしたもんだからどうしたもんかなって、見よう見まねでつくってみたんだけど……やっぱり駄目かな」

 秋は氷の上に鎮座する半円をまじまじと見つめた。見た目はいつものバニラアイスだ。

 ナカムラは、この店の氷菓を知人の店から卸している。氷菓専門店・雪や。名前を見て分かるように店主からとられている。ちなみにユキヤは姓、名は三郎、御年五十二歳。

「そんなことない、俺はよくこれ頼んでるから気付いたけど、それも気のせいかなって思ったぐらいだし、違いなんてほかのの人には分かんないよ」

 本当の気持ちを伝えたいあまり、敬語は消えていた。

 味の再現度はかなり高い。

 この店でこうした事態に遭遇するたび、秋はナカムラの器用さを知る。この人なんで喫茶店なんてやってるんだろ、絶対料理屋とかした方が儲かるのに。まあそんなことしなくても家賃収入で稼げてるか……そう思った事は一度や二度じゃない。

「それほんと?」

 偽りない本心を告げたというのに疑わしい目を向けられ、秋は唇を尖らせた。

「ほんとだよ。俺ナカムラさんには嘘つかないもの」

 それは初対面の時から変わらない。

 今でこそ見慣れたナカムラの笑顔だが、この笑顔のせいで秋はナカムラが苦手だった時期がある。

 父親に連れられ彼に初めて引き合わされた日、秋は始終、春の背に隠れるように過ごしていた。そんなことをしても同じ背格好なのだから隠れきれはしないのだけれど、そうせずにはいられなかった。

 笑っているのに嘘くさいというか、借りてきたものを当てはめたような紛い物感があるのだ。それがどうにも子供ながらに受け付けない――というか、怖かった。

『はい、どうぞ』

 差し出されたジュースに「ありがとう」と飛びつく春と、無言で俯く秋。

『おい秋、どうした』

『知らないところに来て緊張してるんだよ、だよね?』

『そういうもんか? こいつ別に人見知りってほどでもなかった気がするんだが……』

 父の言葉は当たっている。

 秋は、春ほど好奇心旺盛ではないが、さりとて人見知りというほどでもない。ただ春より「わきまえる」ということを学んでいた分、胸中うずまく不快感をどう発露していいのか分からず、困っていた。

 しかし結局、

『……きもちわるい』

 どんなに頑張ってもまだ就学前の子供だったので、本人を目の前に思ったことを口にしてしまう。

 吐き出した瞬間、とてもすっきりした。我慢はやっぱり良くない。むしろ言ってやったぜ、ぐらいの満足感すらあった。

 これに最初に反応したのは隣でオレンジジュースを啜っていた春だった。

『えっ、はくのか?』

 慌てた顔で秋を見る。

『ちがうよ』

『はあ? きもちわるいっていったじゃん』

『だからそうじゃなくて――』

 秋はナカムラの顔を見た。

 ナカムラの仮面のような笑顔はまだそこにあった。ただ、その眉尻は困ったように下がっている。

『……そっかあ、気持ち悪い、か。ごめんね、俺も、なおしかたがわからないんだよね』

 情けなさそうに笑う姿を見て、秋は気まずさを覚えた。どうしよう。やっちゃいけないことやっちゃったんだろうか。

 不安に駆られ、縋るように隣に座る父を仰げば、その大きな手が頭を鷲掴みするように伸びる。怒られるんだ――思わずぎゅっと目を閉じる。

 だけど思ったような衝撃はなくて、父の手は優しく、あやすように頭を撫でただけで終わった。

 不思議だった。

 答えは帰り道。父は言った。

『あいつは……あの人はな、昔むかし悲しいことがあって、でも泣いてたらみんなが心配するって思ったから、笑顔の仮面をつけることにしたんだと。そうやって毎日毎日仮面をつけていたら、今度は外し方がわからなくなちゃったんだって。だからさ、顔はあれだけど胸の中じゃ、悲しいときは悲しくて、おかしいときもちゃんとホントに笑ってるんだよ』

 心の在処を示すようにとんとん、と胸を小突いて、「だから慣れろ」と父は子に命じた。正直、当時の秋たちには父の言うことはいまいちよくわからなかった。

『悲しいときに笑うってどういうこと?』 

 子供の質問に父はそのうちわかるさと頭を掻いて答えから逃げた。

 あ、わからないんだ……軽い落胆とともに、疑問は残ったままで。でも確かに父の言うことは間違ってはいなかった。

 いざそういった場面に直面して、我が身で理解して、そのうえで秋は思った。

 いつかこの人の仮面をぶち壊して、いろんな表情を引きずり出してやりたい。そう思う頃には、秋の中でナカムラの存在は大きく育っていた。

 ――これはひょっとすると、あれ、なんだろうか。

 通うたび、注文したコーラフロートが出てくる間に、自問自答する。

(俺はこの人が好きなんだろうか)

 考える、啜る、会話する、啜る。いつの間にかアイスは溶けてコーラと混ざる。白濁する水面はまるで自分の心のようだ。もやもやとわだかまる感情を持て余すようにグラスの中身をかき回すと何とも言えない色になる。

(俺はたぶん、この人に隠し事はできない)

 悶々とする胸中を、思いの丈をきっとずっとは隠しておけない。初対面で「きもちわるい」なんて抜かした男だ。

 あくまで冷静に考えた結論である。決して自棄になったわけではない。

 そして高三の夏。

 その日は客の一人が好き勝手ピアノリサイタルをひらいていたが、降り出した局地的大雨の勢いはそれをかき消さんばかりのもので。

 秋はいつものようにコーラフロートを注文して、ナカムラが冷えたグラスを目の前に置く。

(いまだ)

 グラスの底が設置した瞬間、告げた。

『好きです』

 

「好きです」

 自然と口から零れた

 過去の焼き直しではない。今日にしようと決めてすらいなかった。

 あの時ナカムラはカウンターの向こう側だったけれど、今日は隣に座っている。

 ナカムラは僅かに目を瞠って、秋から目を逸らした。

「……ぼく、きみのお父さんと歳同じなんだよ?」

「知ってますよ」

 腹立たしいことに以前も同じ事を言われた。

 だからなんだと言うんだ。歳が何だと言うんだ。

「あなたが親父の友だちだから好きになったわけじゃない」

 腹の中で暴れる感情に蓋をして言い返す。思った以上に冷静な声を出せたことに自分で驚いた。昔の自分だったらきっと声を荒らげて反論していた。

「そうだね、きみがぼくを父親代わりに見てるんなら大問題だ」

「気持ち悪いこと言わないでください」

 そんな目で見たことは一度だってない。この先もきっとない。お願いだからそんなことは嘘でも口にしないで欲しい。その思いからつい噛みつくように言い返してしまった。いや、変なことを言うナカムラがいけないのだ。

「……」

 シーリングファンの音がやけに耳につく。

 二人とも黙ってしまうと、まるで二人だけの密室に閉じ込められたような錯覚を起こしてしまいそうになる。

 この時二人はほかの人間の事なんて忘れていた。

「……気持ちには応えられないよ」

 吐き出された苦しげな答えは秋の予想の範疇だった。ただ以前のナカムラだったら苦しげに答えることはなかっただろう。

 秋は一度目を閉じた。今から口にすることは卑怯かも知れないけれど、ここまで来たら後にはひけない。

「じゃあ身体ならいいんですか」

 目を開けると、弾かれるようにナカムラが顔を上げるのが見えた。

 ナカムラは「特別」をつくらないけれど、求める手には応じる。ナカムラの親しい人間ならほとんどが知っていることだった。

「ねえナカムラさん――」

 秋は手を伸ばす。その指先をカウンターに伏せたナカムラの右手に届く寸前で止める。あからさまにほっとする雰囲気が伝わって、秋は笑いそうになる。

 妙な、確信というべきものだろうか。

「ナカムラさん、俺がお願いしたら寝てくれるの?」

「…………そうだね」

「俺が友だちの息子でも?」

「……さすがにセフレはまずいだろうね」

「俺もセフレは嫌だなあ――」

 秋は中指の先でかつんとカウンターを叩いて、ナカムラにあっと言う暇を与えず、その右手を上から掴んだ。

「俺は特別になりたい」

 ナカムラは秋の手を払いのけようとしたが、構わず押さえつけた。

「できないよ」

「どうして」

「どうしても」

「なんで?」

「それは、」

 言いよどむナカムラ。

 その顔を見たらどうしても手を離せないと思った。

「俺、知ってるよ」

「……え?」

 何を言っているのかわからないといった風のナカムラに向かってもう一度「知ってるんだ」と告げる。

「ナカムラさん、怖いんだよね」

 ナカムラの唇が震えた。

「……ぼくのこと、あいつから聞いたの?」

「あいつ……うちの親父? うんまあ、ちょっとだけ。でもそれだけじゃなくて、ナカムラさん見てたら何となく気付いたっていうか」

「み……?」

「そう。俺、ナカムラさんのこと好きなんだよ。好きな人のこと知りたいって、目で追っかけて、ずっと追っかけてたら嫌でも分かっちゃったんだよ。ナカムラさん。誰にでも優しいけど、誰にでも笑うけど、でもそれだけだって」

「なにそれ……」

 ああ、今だ。

 秋はこの瞬間を待っていた。

「ナカムラさん気付いてる? 今いつもの顔じゃなくなってる」

 理解の許容を越えたのか、ナカムラの顔からまだ残っていた表情が消える。

「いつものってなに?」

「仮面みたいな」

 秋は自分の口角を指で持ち上げてみせる。

 夢から醒めた人のように、ナカムラが瞬きする。

「今ね。すっごく困って泣きそうな顔してるよ」

「嘘……言わないで」

「嘘じゃない。俺、ナカムラさんには嘘つかないもの、知ってるでしょ?」

 席を立つ気配にナカムラが狼狽える。影を落とすように距離を縮めて、秋はナカムラの指に深く指を絡ませた。

 そっと触れるだけのキスをする。

「俺もっとナカムラさんのそういう顔、見たい」

「……なにその冗談」

「冗談でこんなことしないし、言わないから」

 鼻先が触れそうな距離で告げると、ナカムラが息を飲む。

 しばらくそのまま見つめ合って、その果てにナカムラが相好を崩した。

「……なんで笑うの」

「いや。ぼくも……受けて立とうかなって」

 距離がゼロになる。

 仕掛けたのはナカムラで、驚くのも束の間、離れゆく唇を追いかけたらなぜかやんわり手のひらで追い返された。

 ここで寸止めはひどいんじゃないかと睨んだら、ナカムラは大仰に肩を竦め、言った。

「ここ、どこだかわかってる?」

「あ」

 忘れていた。

 しまったと慌てて店内を見回せば――。

 こちらのやりとりなど些末なことなのか、読書家の視線は本に向いたままだし、寝袋の住人は健やかな寝息を立てている。

 秋が動揺する様を見て、ナカムラは声を殺して肩を震わせている。

「ナカムラさんっ」

 小声で非難すると、ナカムラは笑いながら、

「続き、したいの?」

「……」

 風情もなにもあったものでない。が、大変魅力的なお誘いであるのは間違いない。

 この喫茶店は会員制。

 客は、茶を飲みたければ勝手に淹れて飲めばいい。腹が減ったなら冷蔵庫にあるものは好きにしていい。

 だからナカムラが接客する必要は本当はなくて。

「……意味分かって言ってます?」

「あのねえ。これでもぼく、四捨五入したら五十だよ?」

 ナカムラが立ち上がり、秋の背中にそっと触れて、カウンターの内へ回る。

 無意識に唇を舐めながら、秋はあとを追いかけた。