狼と夜と理


 

 ほうっと吐いた白い息が青空に吸い込まれていく。

 荒天続きで、久方ぶりに見る青空は冬の終わりを予感させる。

 降り積もった雪を軋ませながら、僕は静かな森の中を一人黙々と歩いていた。

 ここはひどく寂しい森だ。熊や狐といった誰もが頭に思い浮かべるような動物の姿を僕はここで見かけたことがない。鳥も。虫も。生き物はここへは寄りつかない。ただ針葉樹が群れて日陰を作っている。

 それもこれもきっとみんな、僕がいるからだ。

 そうに違いないと今日まで僕は信じきっていた。

 白く濁る吐息は僕に現実を再認識させる。

 人の理から外れて数百年経つというのに、未だ僕の身体は雪を冷たいと感じ、寒さに震え、温もりを求めている。

 おかしくって嘲わずにはいられない。

 

 

 ざくざくと雪を踏みしめて先へ先へと進んでいく。

 もう幾度も通った道は標なんてなくとも迷わない。雪道も慣れたもので、初めの頃は足を取られて転ぶことの方が多かったけれど今ではすっかり平気だ。

 立ち止まることも振りかえることもせず、目的地へただまっしぐら。

 三十分ぐらい歩いて木々がまばらになると、陰鬱な空気がいくらか薄まる。

 ようやくだ。

 僕は真横にあった木の幹に右手を突いて、立ち止まった。

 鏡のように清んだ湖が視界の先に現れる。

 誘われるように湖岸に歩み寄って、片膝をついた。

 どんなに極寒でも凍り付かない、薄氷すら張らない不思議な湖。やはりただの湖ではないのか、その清んだ水の中に僕は生き物を見たことがなかった。

 そっと湖面を覗き込む。空の色を映してどこまでも清く青い。

 映り込んだ自分の顔を崩すように両手を水に浸した。

 生き物が棲んでいるかも怪しい水が人体に無害とは思えないがそんなこと僕に関係ない。

 一掬いして、鋭い冷たさを身体に取り込む。

 何度繰り返したって、僕の身体は平然としている。

 湖の真ん中に沈んでしまいたいと思うけど、僕の身体で清らかさが消えてしまうんじゃないかと思えて、躊躇われた。

 歳をとることを忘れて、妙に頑丈になってしまった僕の身体。

 人の理を外れてもなお鼓動を刻む心臓。

 試すことは色々やってみたけれど、どうしても惜しいところで息を吹き返す。

 でも、もしも本当に神さまがいるのなら、いつか僕を死なせてくれるに違いない。僕が愛してきたものの傍へきっとつれていってくれるだろう……そうやって信じ続けるのにも疲れた。

 これは呪いなのだ。

 あの日、余計なことに首を突っ込んだ僕への罰。

 

 

 何か近づいてくる気配に僕は湖面から顔をあげ、右手側、木々の群れに視線を向ける。

 これまでどんな生き物ともここで遭遇したことがない。だから近づいてくる気配にどう対処すべきか迷った。咄嗟に動けなかったのは、好奇心の面がいくらかあったのは間違いない。

 木々の合間から姿を現したのは一匹の狼。

 ぶるりと身体を震わせたかと思うと、灰褐色の毛並みから溶けた雪が雫となって飛び散る。

 宝物を見つけたみたいに目を見開いて、狼は湖へと駆け出した。

 僕はその光景に言葉もなく見とれていた。

 百年近くここへ通い詰めているけれど、いつだって僕だけだったから。

 狼なんて本当に久しぶりだった。

 駆けだしたばかりの狼が、はっとしたように足を止めた。野生の生き物のくせに間抜けなのか、ようやく僕の存在に気付いたらしい。

 狼はしばらくその場で僕をじいっと見つめてから、湖に視線を移した。

 僕には興味が無いのか?

 いやいやそれよりもっと重要なことがある。

 この狼は僕を見ても吠えなかった。逃げもしなかった。

 寒さで嗅覚が鈍っているのか?

 見た目こそ僕は人間だけれど生物学的にはそこから外れた存在。本能で警戒心を抱かれてもおかしくない、はずなのだけれど……まあ、いいか。

 僕は誰かと争いたいわけではないのだ。帰ろうとそっと立ち上がったところで、狼が僕の方を見た。

 こちらを窺うように見上げながら、とてとて僕の方へやってくる。

 な、なんだ?

 若干腰が引けている僕の足下をくるりと一周して、僕の前で止まった。

 つぶらな双眸が僕を見上げている。

「……はぐれたのか?」

 僕は腰を落として、狼と目線を合わせた。

「わふ」

 言葉が通じたのかは分からないけれど、そんな声が返ってくる。

「この森にお前が求めるようなものはないぞ。この湖の水だってお前にはひょっとしたら毒かもしれない。さっさと引き返すといい」

 僕は狼の後ろ、来た方角を指差した。

 狼がまるで「あなたは?」と問うように首を傾げた。

「僕も帰るところさ」

 僕は膝を伸ばし、空を仰いだ。青さを目に焼き付けてから狼に視線を戻す。残念ながら長生きしても彼らみたいに夜目が利くわけじゃない。だから出歩くのは専ら昼間だけ。

「気をつけてお帰り」

 狼はしばらくじっと僕をみていたけれど、やがてくるりと背を向けて来た方へと歩き出した。その姿が木々の影に飲み込まれて見えなくなってから、僕もまた帰路へつく。

 まさか影の中からつぶらな瞳が僕の背中を見つめていたなんて、僕は知らなかった。

 

 

 

 ※

 

 ――森に入ってはいけないよ。

 さんざん言われていたけれどどうしても好奇心には勝てなかった。

 

 ――どうして入っちゃいけないの?

 ――あそこはね、冬の女王様のお庭なのよ。

 ――女王さま?

 ――そう、だから近寄ってはだめ。

 

 無闇に足を踏み入れたら大変なことになるよ。

 そうやって、物心がつくかつかない頃から言い聞かせられてきた。

 この辺りで暮らすもの――ぼくら狼だけじゃなく、もっと大きくて強い生き物や目に見えないくらい小さな生き物の間でもそれは共通認識だ。

 そこには人間も含まれている。

 何度も繰り返し言われたらそういうものなのかなって、するりと受け入れてしまうのが普通なのかもしれない。

 だけどぼくは森への興味をどうしても捨て切れなかった。

 だから。

 何日も降り続いた雪が止まって、お日様が二回沈んだ次の日。

 こっそり、みんなとはぐれたふりをして森に足を踏み入れた。興奮するあまり、自分以外音を立てるものがいないことにしばらく気がつかなかった。一つのことばかりに気を取られて周りが見えなくなるのはぼくにとってよくあることで、その度に親からは叱られ、兄弟たちにはからかわれる。気をつけなきゃって思ってはいるんだけれど……なかなか直らないんだこれが。

 最初はやや駆け足で進んでいたけれど、森の異常さに気付いてからは慎重に進むようにした。

 静かな森だ。

 しんしんと雪の降る夜よりもなお静か。呼吸する傍から音が静寂に食べられているんじゃないかって考えちゃうくらい。

 なんだか怖い。

 でも引き返すのは、折角ここまで来たのにって気持ちと、来たからには何か見つけたいっていうぼくの負けん気が許さない。

 ……ほんとに女王さま、いるのかな。

 もし会えたら聞いてみたいことがある。

 ああでもぼくのお話聴いてくれるかなあ、いきなり凍らせたりしないよね?

 自分の息づかいと心臓の音、それから足音だけが世界の音になってしまったみたいだ。どれだけ進んでも木と雪ばかり。鳥のさえずりや虫の影すらない。狐や兎の気配もしない。

 ヘンテコな森。やっぱり女王様のお庭だからみんな遠慮しているんだろうか。

 ……いけないこと、しているのかな。

 一度考え出すと止まらない。ひとりぼっちが段々に辛くなってきた。

 今からでもみんなの所に帰ろうか。そう思い始めてきた頃、視界の先、木々の合間で何かが光った。

 雪に太陽が当たって起きる煌めきと似てるけれどちょっと違って見えた。

 ……なんだろ。気になる。

 ぼくはほとんど止まりかけていた歩みを速めた。

 それなりに密に生えていた木々の間隔が広がっていく。

 何かがある。その思いがぼくを勇気づけた。ここは慎重に行くべきだと歩むスピードを落としていく。そこにいるのが女王様だとしたら、ぼくが走って近づく音にびっくりして逃げ出してしまうかもしれない。でもそれじゃ困る。

 そろりそろりと、獲物を狙う時みたいにぼくは慎重に木々の間を進んだ。

 きらきらが木々の間からたくさんぼくの方へと伸びてくる。なんて眩しいんだ。

 うう、目が痛い……。

 光に惑わされている内に、ぼくはひらけた場所に出てしまっていた。

 でっかい水たまりがあって、きらきらの正体が水面に反射した光だってことがすぐわかった。ぼくらの水飲み場の何十、ううん、何百倍もきれいな水たまり。

 あんまりきれいなものだから、ぼくはそればかりに気を取られていて、その存在にちっとも気付いていなかった。

 遠くからでもきれいだけど、近づいたらどんなにきれいだろう。

 飲んでみたい!

 水たまりに向かって勇み足に駆けだしかけて、おやと違和感に足を止める。

 人間がいた。

 ひやっとした。

 向こうはとっくにぼくに気がついていたらしく、興味深そうにこっちを見ている。こんなに近い距離で人間を見るのは初めてで、ぼくは戸惑った。

 狼が近くにいるのに、でもこの人間はまったく逃げる素振りを見せない。顔だって恐怖に引きつっていない。

 庭にやってきた迷子の動向を見守るみたいな、そんなふうにして立っている。

 きれい水たまりも気になるけど、このひとを無視するのはぼくにはできなかった。

恐る恐る近付いて、くるりと足元を一周する。そのあいだ、この人はおとなしいものだった。

 獣にまとわりつかれても動じない。そういうことに慣れっこなのだろうか。

 人間の歳はよくわからないけど、大人と子どもの中間くらいに見える。髪は黒くて、ちょっと硬そう。くすんだ翠の瞳がぼくを見ている。

「……はぐれたのか?」

 わ、喋った。

 びっくりしつつ、慌てて返事する。

「わふ」

 ううん、ちがうよ――っていったんだけど、伝わったかな。うーん、伝わった気がしないけどしょうがないよね、ぼくこれしか喋れないんだもの。

「この森にお前が求めるようなものはないぞ。この湖の水だってお前にはひょっとしたら毒かもしれない。さっさと引き返すといい」

 そうなの?

 きれいな水たまりが急に恐ろしいものに見えてくる。……本当にそうなのかなあ。触って確かめたいところだけど、この親切な忠告を無視するのもどうだろう。気がひける。

 今日のところは素直に帰った方がいいのかもしれない。

 ……この人はこれからどうするんだろう。

 気になって見上げると、気持ちが通じたみたい。

「僕も帰るところさ」

 そう言ってこの人は天を仰いだ。

 不思議とその様が画になっている。前に遠くから見た人間とは何かが違って見えた。

 よくみると、上着の裾端や袖口はすり切れたようにボロボロだ。このひと、いったいどこから来たのだろう。

「気をつけてお帰り」

 そう言われてしまうとどうにも逆らえなくて、名残惜しいけれど来た道をすごすご引き返す。

 でもすぐ足を止めて振り返った。だって、本当に彼が帰るのか気にになったから。ぼくを追い払うために嘘ついたのかもしれないし。

 結論からいうと、彼の言葉は嘘じゃなかった。

 じっと見つめていると、背中が木立の奥へと消えていく。

 ぼくの知らない森の更に奥へと。

 ……あれ、れ?

 ちょっと待った、ここは冬の女王様のお庭だよ?

 ぼくは大変なことに気がついた。

 あのひとはきっと女王様のこと知っていたんだ。だからぼくが女王様に出くわしたりして怒りを買わずにすむように「帰れ」って言ってくれた。

 それとも、それとももしかして。

 

 ……あのひとが女王さま?

 

 

 

 ※

 

 ――ひょっとして、懐かれた?

 もう二度と会うことないだろう。そう考えていた狼と翌日森で再会したときは、偶然の一言で片付けるつもりだった。

 狼はほとんど毎日のように、僕が湖に辿り着く頃にはすでにそこにいた。木々の合間から僕が顔を出すと、すっと立ち上がり、じっとこちらの動向を窺うように見てくる。

 いったい僕の何がそんなに気に入ったのだろう。

 彼は僕を恐れることなく、すぐ近くにありたがる。

 獣の本能はどうしたと言いたい。

 石でも投げつけて、拒否の意を示すべきだろうかとも考える。けれど万一、命中したらとかいたずらに考えすぎて結局実行できない僕がいる。

 できない本当のところは、僕が彼の訪れを密かに喜んでいるからだ。

 もう長いことこの森で自分以外に息をするものを見ていない。

 僕がこの地に篭もった当初はまだ、この森に多くの生き物が暮らしていた。けれどやっぱり命あるのもは異物を敏感に察知して森から、いや、僕から遠ざかっていった。

 木々と湖だけがまだ残っている。

 けれどその木々だって年々減りゆくばかりだし、雪解けの頃になってもほとんどが新芽をつけない。

 ずっと変わらないのは湖だけ。

 といっても水質までそうなのか、学者でない僕には知る由もない。致死の毒に変わっていようとも僕にはただの水と変わらないから。

 狼は、僕が一掬いした水を飲み干すのをじっと観察している。

 言葉が通じているとは思えないけれど「おまえは飲むなよ」と毎度釘を刺すのを忘れない。

「おまえ、こんなところにいて大丈夫なのか?」

「わふわふ」

「……群れに戻れなくなってもしらないぞ」

「わふ」

 ちっとも伝わっているとは思えないけれど、こればっかりはしょうがない。

 湖岸の平べったい石上の雪を靴裏で適当に払って、僕は腰をおろした。僕がいつも景色を眺める定位置。

 すかさず狼が僕の右隣に来て座った。

 そ知らぬ振りをして、僕は対岸をあてどなく見つめる。

 静寂の帳の中にある凪いだ湖面。そこに映る空は淀みなく青い。

 根深い雪を溶かすほどの熱はないけれど、降り注ぐ温もりに冬の終わりを感じる。

 そうだ、時間とはうつろうもの。

 僕だけを置いて。

 あの日を悔いても仕方ないことは分かっている。

 運命の悪戯というやつが僕の身に起こってしまった、ただそれだけ。

「……あまり僕のそばに寄るな」

「わふ?」

 僕の少しばかり低い声色に何ごとか察して、狼がこちらを向く。

 言葉は通じなくとも、込めた想いなら届くかも知れない。

「ここに来るのはもうやめろ。おまえが賢いと信じて言うぞ。いいか、もうここへは来るんじゃない。僕はきっとおまえの得にはならない」

 じっと顔を見ながら言ってやる。

 でも狼は黙って聞いているだけで、何の反応も返さない。

 思わず僕は小さく舌打ちしていた。

 

 

 ※

 

 ――僕はきっとおまえの得にはならない。

 

 あのひとは僕に話しかけるときいつも、突き放した物言いをする。

 お説教、とは少し違う。

 あの人のは忠告、きっとそうだ。ぼくのことを思って言ってくれているんだと思っている。

 時々、ぼくの方に手を伸ばしかけて、はっとしたように引っ込める。きっとぼくに触れようとしたんだ。

 触ってよ、って目で訴えたけど、すっと目をそらされた。どうしてかわからないけどぼくに触っちゃだめって思ってるみたい。

 ぼくの方からすりついたら嫌がるかな。

 酷く拒絶されたら間違いなく打ちのめされてしまう。だから今はぐっと我慢している。

 もう来るなって言われてしまったけれど、ぼくは湖に行くのをやめなかった。

 だって会いたかったから。

 あのひとがひとりぼっちで湖を眺めてるのを想像すると胸がざわざわする。

 どうしていつもあそこにいて、何を思いながらひとり何をするでもなく湖面を眺めているんだろう。乱暴に追い払われたことはまだ無い。だから、まだ近くにいてもいいんだって、許されているんだって思っている。

 でもぼくがそばにいてもあのひとは独りきりでいるのと変わらない。それがなんだか、悔しい。

「――おまえ、森へ入ったね」

 こっそり行って何食わぬ顔で群れに戻ったら、みんなからお説教を喰らった。

「あそこへは行っては駄目だと言っただろう?」

「そう、だけど」

「女王様の逆鱗に触れたらどうするんだい」

 そこではっと気付いた。

「ね、女王さまは男のひと?」

 森へ入る前は、最初にあったひとに「あなたが女王さまですか?」って訊いてみようと思っていたのにすっかり忘れていた。

「なにを言っているんだ? 女の王様なんだから男のわけがないだろう?」

「森へなんか行くから、どうかしちゃったんじゃないの?」

 頭越しに否定してくる兄弟たち。末っ子のぼくは何をしても敵わなくて、いつもだったら言い返したりしないけど、今日は黙っていられなかった。

「どうもしてないよ! 森に人間がいたんだ、男が、一人で」

 そう言ったらみんなが可哀想なものをみるようにぼくを見た。

「あの森に人間がいるわけないだろ」

「でも、」

「いいか、一番近く村の人間だって決して近寄らないんだぞ?」

「鳥だってあそこには迷い込まないわ。そんな場所で人間がどうやって暮らしていけるというの?」

 よってたかって「ありえない」と言われ、ぼくは口を尖らせた。

「……でもぼくは会ったんだ」

「おまえがそうまでいうなら、その男はいたのだろう」

 それまで静観していた父さんがやっと口を開いた。

「父さん」

「だがおそらく、ただの人間であるまいよ。証拠に、お前から人の匂いがしない」

「うそ」

「……そういえば、おまえにはまだ人間の匂いをちゃんと教えてはいなかったな」

 末っ子ということもあって、家族はちょっとぼくに甘いところがある。

 ぼくは人間を本当に遠くからしか、それも数えるくらいしか見たことがない。足下の石粒より人間が小さかった。そんな距離じゃさすがにはっきりした匂いは届かない。

「ひょっとすると我々が女王だと思っている正体がその男なのやもしれんな。……金輪際森に入るのはやめなさい」

「どうして!」

 父さんが眼光鋭くぼくを見つめ返す。

「おまえは得体の知れぬ存在に気を許しすぎだ」

「あのひとはぼくに、ここには来るな、帰れ、って言ってくれたよ?」

「だから悪い人じゃないとでもいいたいのか?」

「そうだよ!」

「そうやっておまえの信用を得るための方便かもしれない」

「……会ってもいないのにどうしてそこまで言えるの」

「森に入ってはいけないというのはね。父さんの父さん、そのまた父さんという具合にずっと語り継がれてきた不文律なんだ。いいかい? 語り継がれるからにはそれなりの理由があるんだよ」

「……それなりってなに?」

「冬の女王様のお庭だからさ」

「それは知ってるよ。女王さまのお庭だったらどうして駄目なの」

「女王様を怒らせて冬が長引いたらどうする? わたしたちに待つのは滅びだ」

「でもあのひとは」

「女王様じゃあないかもしれない。けれど、無関係とは言い切れないだろう。おまえはその人間のことをどれだけ知っている?」

「それは……」

 とっさに言い返せなかった。そんな自分が歯がゆく、ぐるぐると唸る。

 あのひとのことをぼくはなんにも知らない。もっと知りたいとさえ思うのに、ぼくはあのひとの使う言葉を話せない。伝えたい想いがどれだけあっても、上手く伝える術をぼくはしらない。

「悪いことは言わない。森へ入るのはやめなさい」

 ぼくはただ黙った。

 きっと森へ入る前だったら、ぼくは父さんの言葉に素直に頷いていただろう。

 

 

 

 ※

 

 寒の戻りだろうか。

 今日の空は灰色で、吹き付ける風で湖面がさざ波立っている。

 それでも僕はいつものように湖に手を浸し、掬った水に口づける。変わることない冷たさが喉を通りすぎていき、胃の腑に染み渡る。

 これが僕を殺してくれる毒だったら。

 思いだしたように夢想する。終わりに焦がれた時期はとうに過ぎた。

 生に飽きていると口にすれば贅沢な悩みだといわれるのは間違いない。

 けれど老いもせず死ねない身体になって、近しい人たちの死を幾度も看取っていけばきっといくらかは分かって貰えるだろう。

 なんて、切々と訴えたくなる時期もあった。

 ――あれは学生時代のことだ。

 誰かが言い出した。

 街を騒がす化け物を自分達の手で退治してやろうではないかと。

 若い時分というのは、やればなんでも出来てしまうような、そんな錯覚を起こさせる。仲間の結束力に比例したようにそれは伝染していって、僕もまた罹患していた。

 今思えばなんて愚かだと思う。

 たかが学生風情が、正体も明らかにない化け物と対峙して、あまつさえやっつけてやろうというのだから。

 結果だけ言えば、僕らは化け物を倒すことに成功した。

 そして僕だけが呪われてしまった。

 偶然だけれど、トドメを刺したのが僕だったからだろう。きっと返り血を浴びたのがよくなかった。おそらくあの化け物の血には何かしら良くない効果があったのだ。

 最初の数日は異変に気付かなかった。

 だって僕の心臓は動いていて、呼吸だってしている。眠くなれば寝るし、腹が減れば食事をする。生活はいつもどおり。

 おかしいなと思ったのは、爪を見たときだった。左の中指だけ切りすぎたから、早く伸びてくれないかと思っていたのだ。

 頭に浮かんだ考えを打ち消すように、僕は中指以外の爪を切った。切り落とした部分を捨てるか迷って、ひとまずとっておくにした。確信を得るために、すべての爪の根元に薄く印がわりに傷をつけた。

 事実を知るのが怖くてしばらく自分の手が直視できなかった。それでも手だ、いやでも視界に入る。

 印が移動したとわかった時は嬉しかった。けれどそれも左の中指を見るまでだ。それだけが印の位置が変わらない。

 僕は縋るような思いで先日切り落とした爪をくるんでいた紙を広げた。

 印が動いた長さは切り落とした爪と同じだった。

 いやいや待て待て、もっと伸びるだろう。

 しかしいくら経っても、切った以上に爪が伸びない。

 血の気が引いた僕は、そのまま自室で気を失って倒れていたところを親友に発見された。彼はここ数日の僕の態度がおかしいことと感じていたらしい。自分の中に留めておけるほど僕は大人ではなく、僕はとうとう彼に打ち明けた。

 彼は本当にとてもいいやつだった。

 僕が変な組織に攫われて実験台にされることなく、また狂いもせず――見方によってはそうでもないかもしれないけれど、ともかく、こうやって世間から遠ざかり穏やかな暮らしができているのは彼が僕の親友でありつづけてくれたからだと思っている。

 僕の親族でもないのに、彼は僕が生きていく上での困難に事あるごとに手を貸してくれた。僕が老いない身体ゆえに目立つのを避けて各地を転々としても資金に困らなかったのだって彼のおかげだ。

 彼は一代で財を築き、その子々孫々は世界の億万長者に名を連ね続けている。

 その築いた財の一部を僕に譲ってくれるくらいに、彼は底なしのお人好しでもあった。自分が懐にいれたものは家族も同然なのだと彼は言ってくれた。

 だからこそ別れは、身を切られるような痛みだった。この先、彼のような愛情深い人間と出会うことはあるだろうかと思い悩んだくらいだ。数えるのも億劫になるほどの時間を過ごし、出会いと対となる別れのたびに、僕は彼を思い出す。

 貰ってばかりで何も返せていない。

 もしもあの世で待っていてくれたなら、土産話を腐るほど披露してやるのだけれど。

 ――指先から落ちた雫が湖面で弾け、僕の顔が歪む。

 僕は立ち上がり湖岸から離れた。来た道を戻る。僕の根城へと。

 最近、あの狼がここに来なくなった。

 僕の言ったことを理解したのかは怪しいが、寄りつかなくなったのはいいことだ。

 そういえばあの狼は知らないだろうがこの森は、僕が棲みついた当初は今とは随分違って、鳥や虫や動物たちの住み処だった。僕という異物を避けるように彼らは何処かへと散っていった。彼らは本能で僕の存在の危うさを嗅ぎ取ったのだ。

 つまり、あの狼がおかしいのだ。

 だがそれも、ついに覚ったようだ。

「……おかしいな、来るなと言ったのは僕なのにな」

 いないはずのものがいて、いるはずのものがいない。

 そんなのもう、慣れっこのはずなのだけれど。あのおかしな狼のせいで僕までおかしくなってしまったらしい。

 半分雪に埋もれた僕の家が見えてくる。

 これは僕の親友がくれた。辺鄙な場所にある空き家の情報を手に入れた彼は、息を引き取る三日前に僕に鍵と地図を押しつけた。

 幽霊屋敷なのか、廊下や部屋のロウソクはひとりでに灯るし、薪をくべずとも暖炉は勝手に燃える。恐ろしいと思ったのは最初だけだ。

 僕自身呪われた身で、これ以上何を恐れることがあるだろう。

 それに怪異はその程度しかなく、勝手に住人が増えたり三食きっちり食事がテーブルにそろっているようなことはなかった。

 よくこんな邸を彼は見つけたものだと思う。

 建物の輪郭見えてきたところで、僕は足を止めた。それからゆるりと背後を振り向いた。

 ……こっそり隠れてついてきたつもりなんだろうけれど、痩せた木ではおまえの身体を隠しきれないよ。

 抑えきれず、ため息が漏れる。

 観念したように木の陰から現れる狼の姿に、僕は正直気持ちを持て余していた。

 

 

 

 ※

 

「……来るなと言っただろう?」

 初めて聞くおそろしく低い声に、ぼくはぎゅっと心臓を掴まれて動けない。

 怒っている? それとも呆れている?

 どっちにしても、ぼくが彼の忠告を無視したことには変わらない。

「……くぅん……」

 だけどぼくはどうやっても会いたい気持ちを捨てきれなかったんだ。

 そろそろと彼の方へ近づいていく。

「おまえはばかなのか」

 ぼそりと呟くのが聞こえた。

 うん、きっとそうなんだと思う。

 そんなぼくを見るあのひとはどこか呆れたような、そしてちょっと戸惑った顔をしている。決してぼくを待ってくれている訳じゃないって分かっているけれど、すぐそこに家があるんだから飛び込んで鍵を掛けてしまえばいいのにそうしないところがぼくは好きだ。

 狼相手に走っても敵わないって考えただけかもしれない。それでもこうして背を向けずぼくに向きあってくれていることがとても嬉しい。

 今すぐ飛びつきたいのをぐっと我慢して、彼の前で「おすわり」する。

 ぼくをじっと見据えて、彼が腕組みした。

「なにを勘違いしているんだかしらないけど、僕はおまえのあるじになるつもりはないよ」

「わふん」

 きっとそう言うだろうと思った。

 ぼくもね、そんなことこれっぽっちも考えたことないんだ。と言ってみたところで、うん、伝わってないよね。だって彼の表情は厳しいまんまだ。

 ああ、ああ。どうにかしてこの気持ちを正しくこの人に伝えたい――。

 想いに呼応するみたいに筋肉がめりめりと悲鳴をあげる。

 目の前の彼の驚いた顔……ああ、そんな表情もするんだ。笑ったつもりだけど上手く形になっていただろうか。

 喉からひゅうひゅうと形にならない音が吐息となって漏れていく。

 腹の底から絞り出すようにありったけの想いを吐き出した。

「ぼく、は、あなた、が、すき」

「おまえ……ただの狼じゃなかったのか」

「……みたい」

 先日までぼくも知らなかった。

 この人に会いたくて、でも監視する家族の目があってどうしても森に行けなくて、悶々と日々を送っていたある日。急に胸が苦しくなって身動きするのも辛くて、一晩唸りながら伏せっていたら、始まったときと同じで急に苦痛が和らいだ。

 と、思ったらぼくは人間の姿になっていた。

 父さんはぼくを見て、遠いご先祖さまが人狼だったという逸話を思いだした。

 本物の狼になりたかったご先祖さまは人間とも仲間とも距離を置いて、その結果がぼくらなのだけど――どういうわけかぼくだけが先祖返りしたみたい。父さんが逸話を作り話だと思って記憶の彼方に追いやってしまっていたくらいだ。

 ご先祖様の願いはそれだけ本物で強かったんだろう。

 人化すると素っ裸になってしまうから、いつだったか大風の日に人間の街から飛んできて木にひっかかったままの布きれを拾って、鬱陶しいけれど首に巻いて移動している。変化したらそれを身体に捲くんだ。

 慣れない手つきで今日も端を結ぶ。よし、できた。

「ぼく、あなたが、すき。あいたい。ちかく、いたい」

「それで、その姿になったって?」

「うん」

「……そのなりで「うん」はないだろ」

「?」

 どうしてか彼が苦み走った顔でため息つく。ぼくはいつもどおりなことしかしていないんだけどなあ……ちょっともやもやする。

「一応訊いておこうか。僕を雌と勘違いしているのか?」

「ちがう」

「そうか……」

 訊いておきながらなんだろ、ちっとも納得した顔していない。

「おまえの熱意は理解はした。その上で重ねて言わせてもらう。僕の前には金輪際現れるな」

 ぴしりと線を引かれたのが鈍いぼくにもわかった。

 来るな、じゃなくて、現れるなって。

 忠告じゃなくて、警告でもなくて、これは一方的な宣言だ。

「いやだ」

 頭をふって、一歩踏み出した。

 その瞬間、このひとの目が怯えるように揺れた。彼はさっとぼくから目を逸らして、後退ろうとする。

 やだ、待って、逃げないで。

 慣れない二本足ながら、気持ちだけは狩りの獲物に挑むそれで、ぼくはあのひとを追いかける。ああどうして、同じような姿になれたのに、同じ言葉を話せるようになったのに、心の距離は縮まらないんだろう。

 縋るように手を伸ばす。

 力ずくで腕の中に彼を閉じ込める。

「は、はなせ……っ」

「やだっ」

 暴れる彼の首に鼻筋を押しつける。

 これがこの人の温度? 匂い? 

 匂い……思い返せば初めて会った時からよく分からなかった。どうやらぼくの鼻がばかになったわけじゃないらしい。難しい言葉は分からないけれど、個体特有の匂いってやつがこの人にはないんだ。着ている服から微かに生活臭みたいなものはするけれど、そこにこの人の匂いはない。

 父さんが言ったようにただの人間じゃないのかも。

 じゃあ、やっぱり女王さま?

 ううん、なんでもいい。ぼくはあなたが好きなんだ、それだけなんだ。

「すき」

 思いあまって首を甘噛みしたら「ひゃっ」って可愛い声が聞こえた。

「おまえ、なにして……」

「すき、だめ?」

「好きとかどうとかじゃなくて、普通は噛んだりしないから」

「いや?」

「…………」

 葛藤するみたいな長い間があって、彼が大きくため息をついた。

「説明するから、一旦放してくれるか」

 渋々、言われたとおり彼を自由にした。腕の中の温もりが離れるのはひどく切ない。

「昔、僕は人間だったよ。きみが知るよりずっと遠い昔だ。本当なら僕がこんなところでおまえと喋っていることがおかしいくらいにね」

 死ねないのだと彼は言う。

「じゃあ、女王さま、ちがう?」

「なんだそれ?」

「ここ、ふゆの女王さまのおにわ、むかしからいわれてる」

「ここで暮らして長いがそんな高貴な存在にお目にかかったことはない……そうか、この森はそう呼ばれているのか」

 彼は口端を歪めて笑う。この笑い方、ぼく、好きじゃない。 

「僕の存在がそうやって得体の知れないものになってしまうくらいに昔から、僕はここに棲みついているんだよ。そうして僕を避けるように多くの生き物がここを出ていった。近づいてきたのは、ここに来てからきみが初めてだ」

「!」

「嬉しそうな顔をするな。僕は独りになりたくてここへ来たんだ。わかるか、きみはぼくの邪魔をしたんだ」

「じゃま?」

「ああそうさ。僕はもう……誰にも置いていかれたくないんだ」

 淡々と彼は言い切った。

 ぼくには到底推し量りきれない深い孤独や悲しみが、彼にその決断をさせたのだろう。繰り返す出会いと別れがもたらすのは決して喜びだけでない。

「だから、ぼくがじゃま?」

「そうだ」

「でもぼくは、あなたといたい」

「……わからないやつだな」

「そうだよ、ぼく、むずかしいこと、にがて」

 おそるおそる彼の手をとった。彼がびくりと肩を震わせる。ああ、そんなに怖がらないで。

「ぼく、じんろーだから、にんげんよりはながいきするよ? そのあいだに、あなたをおいていかないほうほう、かんがえる、さがす。がんばる。それでもだめ? いっしょにいたら、だめ?」

「そんなこと言って置いていくくせに」

 何度も経験したような口ぶりに、ぼくは言葉に詰まる。

 そいつらとは違うと反論したい。けれどここですぐさま証明することはできない。結果が出るのはずっと先のこと。

 今じゃなきゃ、だめなのに。

 彼が引いた線の、心の、内側に入りたい。振り払われるのがこわくて握った手に力を込める。

「……いっしょにいたいよ」

「そんなに僕が好きなのか?」

「うん、すき」

 ああどうすればこの気持ちがそっくりそのまま伝わるだろう?

 同じ言葉が話せたらきっと伝わるって思っていたのに、現実はそうでもくて。狼の時より会話がしやすくなったくらいだ。

 ぼくの言葉は、彼の心にちっとも響いていないみたい。

「すき、だいすき……どれだけいえばあなたにつたわる? しんじてもらえる?」

「信じるとか、そういう問題じゃあないんだよ」

「わからないよ、ぼくにはわからない」

「そうだな、置いていかれる僕の恐怖なんてきみにはわかるはずがない」

「こわいの?」

「……ああ。そうだね。向けられる想いが深いほどに、ね」

 そう言った時の彼の、寂しそうに笑う顔を見たら抱きしめられずにはいられなかった。ぎゅうぎゅうと力を込めたら、苦しそうに彼が呻く。

「おい、この……はなせって」

「やだ、やだ」

 ずっとこうやってくっついていたら、温もりごとこの人にぼくの想いが届く気がした。

 

 

 

 ※

 

 途方に暮れる、そんな言葉が僕の頭の中に浮かんだ。

 締めつける腕の力に音をあげつつ、喜んでいる自分にも気付いて嫌になる。

 自分が思っているより僕は人生を諦め切れていないらしい。自覚するよりもずっと、温もりというものに飢えているらしい。

 人の形をしながら獣臭い彼の、抱擁を通り越してもはや拘束でしかない拙い愛情表現に、今僕は絆されかけている。

 どうやら運命は僕に孤独を許さないらしい。

 あるいは、真の孤独へ突き落とすための試練なのかもしれない。

「……ああ、もういいよ」

 もう、なんでもいいや。

 この若い狼の熱意に賭けてみようじゃないか。

 ……でも、できればこれが最後でありたい。なんて運命に願うのは愚かなことかもしれない。だって一向に僕の願いを叶えてくれない運命だ。

「いいの?」

「ああ、いい」

 好きにすればいいと肩の力を抜けば、拘束も緩くなる。

 少しだけ高いところにある双眸が、僕を見つめて痛いくらいに「好き」と叫んでいる。どうしてそうもひたむきなのか。

 きっと街にでも行けば老若男女の目が彼を追う。それくらい、目の前にあるのは美丈夫だ。狼の時も、まあ格好良かったけれど。

 僕がいいよと言ったから、これみよがしにすりすりと首もとに鼻先を押しつけてくる。くすぐったいと言う前に、首筋をかぷりと咥えられた。

「あ、」

 変な声が出て、かっと羞恥が込み上げる。

 軽く歯を立てられて、その跡を熱い舌がなぞる。

「それ、やめ……」

「どうして?」

「だ……、くすぐった、いっ」

 言い切る前にまたかぷりと咥えられる。

「ひゃじゃひゃいんだ」

「そこでしゃべるのやめ……っ」

「ん、」

 べろりと首筋を舐めたかと思ったら、ちゅっと吸い付く音がする。音はどんどん耳元に近づいて、居たたまれなくなってぎゅっと目をつむれば、耳朶に軽く歯を立てられた。

 ぞくりとして肩をすぼめたら、歯の感触は消えて、額にふんわり口づけが落とされる。

 ゆるりと視線をあげればどこか困ったような顔があった。

「ぼく、そとでもへいき。あなたは? さむくない?」

 春を迎えようとしていてもまだ雪は完全に消えてはいなくて。僕の家の周辺はまだ真冬の頃と変わらなくて、そして僕の後ろにはその家が見えている。

 おそらく彼の言葉に言葉以上の意味はない。性癖の確認でなく、これはただ体調を気遣ってくれただけ。

 病とは縁遠いし、今更気にするような人目もここにはない。

 だけど最初くらいはまあ、邸内がいいのかもしれない。たとえそれがひとりでにロウソクが灯る奇妙な邸だとしても。

 

 

 若い狼を家の中に引っ張り込んで、指を絡める。

 注がれる熱っぽい視線。誘うように舌を出せば、噛みつくように口づけられて潜り込んできた舌が僕の腔内を蹂躙する。呼吸を奪いあうように互いに舌を絡ませて、唾液の応酬。

 技とかそんなのはなくて、情熱だけでやりあっている。

 家に入るなり始めたから、まだ部屋にも辿り着いていない。

 酸欠で頭がふわふわする。

 だんだん足に力が入らなくて震えていたら、その場で器用に転ばされた。物欲しげな瞳に僕が映りこんでいのがわかって、腹の辺りがぞわりとした。

 そうだ、人狼だとか言っているけど彼はつい先日まで僕よりも本能に近い生き方をしていて。でも、僕のこと雌じゃないってちゃんとわかっていたようだけれど……。

 ……ああ、色々考えるのは今はやめようか。

 彼が僕に欲情してるいる事実だけを直視しよう。彼の股間に手を伸ばす。隠すものは取るに足らない布きれ一枚。兆した雄に触れるのは簡単だ。

 指先が触れると、びくりと彼が腰を逃がす。

「……僕のも触っていいから」

 押し倒してきた勢いはどこにいったのか、服の上からおずおずと僕に触れてくる。

 弱ったな。自分からさらけ出す癖はないのだけれど。

「そんな慎重にされると僕も困る……」

「さわっていいの?」

 さっきそう言ったじゃないか。

 そう口にしかけて、期待と不安混じりの揺れる瞳を前に僕はやむなく頷くだけに留めた。図体ばかりでかいだけの幼子がここにいる。

 いや、誰だって僕にしてみれば子どもだ。

「……ほんとに僕でいいのか」

 ここに至ってまた、どうしても訊いておきたかった。

 彼は拗ねたように唇を尖らせた後、返事代わりに僕の唇に噛みついた。

 

 

 

 ※

 

 あったかい。

 腕の中の温もりにぼくは頬ずりする。

 匂い、体温、肌触りを確かめるように何度もすり寄って、それだけじゃ足りなくて、身体全部使って触れていく。

 熱い吐息。潤んだ瞳からぽろっと流れた雫を追っかけて舐めたら、彼が目を丸くした。初めて見る表情が今日だけでどんどん増えていく。

 残念ながら涙は甘くなかったけれど、新しい表情が見られるならまたやってもいいかもしれない。

「同性とするのは初めてだ」

 最中、そう告げてきた彼は、興奮して頭に血が上るぼくを時々たしなめながら、それでも本気で嫌がりはしなかった。

 受け入れて貰ったことにぼくは舞い上がっていて、自分だけ先に気持ちよくなったことに気がついてものすごく反省した。

「つぎはあなたをきもちよくするね」

 そう言ったら何故か静止の声がかかったけれど、勢いづいたものは急に止まれなくて。

 いっぱい頑張った。

 でもぼくはちょっと頑張りすぎたみたいで、彼が意識を飛ばしてしまった。どうしようって慌てたけれど、呼吸は穏やかだったから気がつくまで待つことにした。

 その間に、彼の鎖骨をなぞったり、指をにぎにぎしたり、ちっちゃな乳首を舐めてみたりした。

 乳首をぺろっと舐めたとき、彼の口から微かに喘ぐような声がしたから、もうひと舐めしてみた。うん、気持ちいいのは間違いないみたい。

 ぼくは抜かずにいたぼく自身をゆるりと動かした。

 悩ましげな声が彼の口から洩れる。

 ……早く起きないかなあ。

 そう思いながらゆるゆる動かしていたら、ようやく彼が目を覚ました。

「なんでまだ……」

 自分の中に居座る存在に困惑する彼に向かってぼくはえへへと笑う。

 ちょっとやそっとぎゅっとしたくらいじゃ足りない。

 このひとにちゃんとぼくの想いをわかって欲しいから。

「はなれたくない、はなしたくないんだもん……」

「……頼むからその見てくれで「だもん」はやめてくれ」

 ぼそぼそ変なことを言うと、彼はふうと息を吐き出して目を閉じた。

 一、二、三……や、やだ、やめて、いきなり黙るのやめてっ。

 そう思っていたら、彼が薄目を開けておもむろに両腕を広げた。

「いいよ、付き合ってやる」

 その手がするりとぼくの首の後ろに伸びる。

 ぞくりと身体中に歓喜が駆け巡る。

 彼の方から続きのお許しが出たのだ。

 ぼくを止めるものは何もない。

「わかった、いっぱいきもちよくするね?」

 ぼくがもうちょっと大人だったら彼の諦観混じりの苦笑に気がついただろう。

 

 

 

 

 後日。

「死んだかと思った」

 天国ってここなのかなと彼は思ったらしい。

 ぼくはその意味を取り違えて、危うくこのひとを抱き潰しかけた。想いを受け入れて貰ったばかりで置いて行かれてしまうなんて。確かに彼は死ねないことを嘆いているけれど、早いよ、ひどい、あんまりだ。

 ぼくの勘違いは彼が真っ赤になりながら言葉を尽くしてくれたおかげで、解けた。

「……そういうこと」

「……そういうことだ」

 理解してみると、余裕がもてた。

 真っ赤になったこの人、なんて可愛いんだろう……。

 

 加減なんて当分できそうにない。