04


 

 アーヴィングの邸で生活するようになってひと月も経てば、モモにもそれなりに内情が掴めてきた。

 一家のあるじであるグレンは、毎朝定時に家を出て毎晩定時に戻ってくる。だから朝夕の食事は家族全員が顔を揃えている。

 なんとも待遇がいいことに、モモはその場に同伴をゆるされている。しかもモモ用の食事まできちんと用意してくれる。これがまた大変美味しい。

 モモが野菜の新鮮さやパンの柔らかさのいちいち感動している間、グレンとベティはグラスに入ったの血液を味わい、サラは水で錠剤を流し込んでいる。

 朝から人間の生き血を啜る家庭もあると聞いていたが、少なくともモモがアーヴィング家へ来てからそんな光景を目にしたことはない。

 近年では優雅さに欠けて見苦しいといった点などから、そうした行為を敬遠する傾向にあり、人工血液パックやタブレット錠などを製造する会社が増えている。とはいえ、その元になるのは人間の血液だ。

 そしてそれは美味でなくてはならない。

 人間の血を美味しくするのは、豊かな食事だ。

 グレンはエサのための餌を造る工場プラントの偉い役職に就いている。モモの食事がきちんとしているのはそのおかげでもあるだろう。

 グレンは雄弁に語る男ではないが、食事の時は家族の顔をきちんと見ているし、強面のせいで厳格に見られがちだが妻のベティのずれた発言に思わず相好を崩してしまう、そんな柔らかい部分もちゃんと備えていた。

 

「はい、モモちゃん。今日のお茶はどうかしら」

 柔らかい日差しの中、二階のテラスでは小さな茶会が開かれている。

 ベティの午後の日課の一つだ。

 午前中は読書か刺繍をし、天気が良ければ午後から庭を散歩して二階のテラスでお茶を飲む。ベティの毎日はその繰り返しだ。

 サラが学校に行っている間、特に義務を課せられていないモモは身体が空いているから、ほとんど毎日お茶の相手に呼ばれている。

 それで分かったことがいくつかある。グレンとベティは幼馴染みであり、求愛したのはグレンの方からだということ。

「一度ね、どうしていつも怒ってるみたいな、難しい顔をしているのって訊いたの。そしたら彼、困ったように眉をね、ハの字にして」

 ベティが自分の眉頭を指で押して、ハの字を作る。

「きみはずっとそんなふうに思っていたのかって悲しそうに言うから、思わずごめんなさいって頭を下げたわ。自分で言うのもなんだけど……わたし、どうやらほかの人とズレてるみたいなのよね。なんでかは分からないんだけれど」

 ふふふ、と可笑しそうに笑うベティに悲嘆している様子はちっともない。

 毎日会話していればモモにも彼女のズレが理解できてくる。

 でも脳内お花畑かと早々に切り捨てるのは間違いだ。かといって、彼女のズレを正しく説明するのは容易でなく、モモはベティの目の前にいながらにして、どう説明したものか頭を悩ませる。

 家事らしい家事を一切せず、中身のあるようでない話で日々時間を潰すだけのベティ。けれどそれが、彼女がこの邸で与えられた役割なのだろう。

 彼女は邸の空気を円滑にする歯車だ。

 けれどベティは愚かな道化ではない。

 ……やっぱり言葉にするのは難しいな。

 モモは一旦諦めた。

「あら……もうすぐサラの帰ってくる時間ね。ありがとうモモ、もう行っていいわ」

 懐中時計に目を落とし、それから傍に控えていたアンに目配せする。アンはベティづきの侍女だ。侍女というと響きが固くてベティは嫌いらしい。アンはアンなのだ、という。

 そのアンが、どこに隠し持っていたのか、小さな封筒をモモの手に握らせた。

 薄いが硬い。裏返せば、まだ封はされていない。思わずベティを見れば、彼女が小さく頷く。

 視線を感じながら、中身を引き出してみた。硬質なカードが一枚出てくる。

 モモは手の中のカードに目を疑った。

「ベティさま……これ……」

 目に見える貨幣紙幣は疾うに廃れ、ヒトの社会で物を買うにはカード一枚で事が足りる。けれどそれはあくまでヒトが使う物だとモモは思っていた。

「そのカードはあなたの物よ。あ、でもグレンあのひとには内緒ね」

「こ……こんなの、いただけません」

 押し返そうとしたら、やんわり繊手に留められた。

「どうか貰ってちょうだい。これはお礼なの」

「お礼?」

「そう。あなたがこのうちにくる前ね、あの子……サラは少し落ち込んでたの。ううん、悩んでたと言うべきかしら。きっとまだ解決してはいないんだろうけど……。とにかくね、あなたが来てサラが少し明るくなったの。わたしには出来なかった、だからこれはそのお礼よ」

 ありがとう、と繊手がモモの手に重ねられる。

 その厚意を突き返すことは、モモには出来なかった。

 

 

 夕方、あとからアンがカードの仕様やら詳細を教えるためにわざわざ部屋まで訪ねて来た。モモの居場所はサラの部屋だから、サラの邪魔をしないようにと説明は廊下で行うことになった。

 グレンはちゃんとモモのための部屋を用意してくれようとしていたのだが、一緒がいいとサラがごねたのだ。彼女がわがままを言うのは相当珍しいらしく、グレンが折れた。ただし今の内だけだぞ、という限定付きである。

 モモに与えられたカードだが、いまはまだ残高ゼロの状態で、これから時に応じてベティ側から『おこづかい』が振り込まれる仕組みらしい。使わなかったぶんを取り上げるようなことはしないという。

「もっと違うものが良かっただろうかとベティさまは悩んでいらしたよ」

 だけど喜びそうなお菓子も料理も作り方が分からない。美味く出来る自信も無い。趣味の刺繍なんてたかが知れているしと、彼女なりに悩んだそうだ。

 ……たかがって、そんな。

 決してそんなことはないとモモは頭を振った。サラの部屋に飾ってあるベティが作ったタペストリーはいつ見てもため息が出るくらい美しいのに。

「ぼくなんかのために……もう、感謝してもしきれないです。ありがとうございますって、改めてお伝えください」

「あいわかった。……しかしきみはほんとう、八歳の子どもか?」

 幼い外見と喋り方とのギャップを揶揄されて、モモは苦笑を滲ませる。気をつけようとは思うもののサラからはそのままでいいと言われたし、これはちょっとした悩みだ。

「……そういうアンさんこそ、」

 小柄で可愛らしい見た目から発せられるハスキーな声とさばさばした喋り方は少し癖になる。

 アンはからりと笑って、

「よく言われる。――じゃあな、よい夢を」

「はい、おやすみなさい」

 アンの背中を見送りながら、サラに訊かれたらどう答えようかなと考える。じつはまだカードの話はしていない。なんとなく、今はその時期じゃないと感じたからだ。

 でも主人に隠し事が良くないことは理解はしている。

 詮索されたらどう答えようか。

「……」

 部屋に入る前にこつんとノックしてからドアを開ける。

 サラは、モモが出てきたときと同じで、学校の課題の取り組むために机に向かっている。

「お話は終わったの?」

「はい」

 本当はそわそわ落ち着かないのを隠して、モモはサラの元へ向かう。詮索されるかと思ったがそんなことはなくほっとする。

「課題はどうですか」

 横から手元を覗き込めば、サラがタブレットの画面から顔をあげる。

「あと少しで終わるわ。ところで……ねえモモ?」

「はい?」

 まさかと思い、ひやりとするも、サラの口から出たのは思いがけない言葉だった。

 

「今日は一緒にお風呂に入りましょう?」

 

 

 ヒトは人間と比べるとあまり汗をかかないらしい。それでもまったくというわけでなく、身体を洗い清潔に保つのは人間と完全に袂を分かつ前より続く習慣、文化だ。

 ただ、ヒトのおおよそたる吸血種の分類は流水が苦手だから、シャワーは霧雨だし、かけ湯の回数はなるべく減らすよう心掛ける。

 温かい霧雨が頭上から降り注ぐ湯船に、モモとサラはお互い向き合って浸かっている。入浴剤のおかげで湯色が牛乳みたいだと、合わせた両手で掬いながらモモはそんなことを思う。匂いは爽やかな花の香りだ。

 こうしてサラと一緒にはいるのは今日が初めてだ。

 湯色に負けず劣らず白いサラの肌がほんのり熱に上気している。それがサラを空想でなく現実のものだと改めてモモに知らしめる。

「サラさま」

「なあに?」

「どうして今日はいっしょにって思ったんですか?」

 追求されたくないことだったのか、サラは目を泳がせてぼそぼそ言った。

「……モモのことで知らないことがあるの、嫌だなって思ったから」

「え」

 言葉をかみ砕くように頭の中で反芻していると、サラが右手を伸ばし、指でモモの心臓の上を撫でた。そこにはアーヴィング家の所有物だと示す印がある。ちょっとやそっとのことで落ちない特殊インクのスタンプだ。身体への害はない。説明によれば、一年間は押したときとほぼ同じ状態で持つのだそうだ。

「……モモはわたしのなんだから」

 ぼそぼそとサラが何か言うが、雰囲気に呑まれたモモは為されるがままだ。

「さ、サラさま」

 ちょっとくすぐったい。けど我慢する。

 それよりなにより。サラは今、モモに何を望んでいるんだろう。

「サラさまっ」

「……っ、な、なに?」

 突然の大声に驚いてサラの手が離れるも、モモはその手を両手で掴まえる。

「あ、のですね。ひょっとしたら見当違いなのかもですけど、ひょっとしてひょっとしてぼくを使ってなにかエッチなことがしたいんでしょうか?」

 ぽかんとしたサラの顔が、意味を理解して徐々に紅潮していく。こんなに真っ赤になったところをモモは見たことがない。

「も、モモっ、あなた、自分がなにを言っているか分かっているの……?」

 モモはもちろんだと首肯する。バートリーで施された教育の中にはそっち方面もしっかり含まれている。

「サラさまがいっしょにお風呂入りましょうって言うからひょっとしてもしかしてそうなのかなあって。でもぼく見ての通りまだ小さいし、先生からも君は才能あるけど最後までするのはもっと大きくなってからにしなさいなって言われているから、サラさまが考えているようなことちゃんと出来るか分かりませんけど、精一杯頑張りますから――」

「ちょっと待ちなさい!」

 モモの話をサラの大声が遮った。初めて聞く声のトーンに、モモは小さな肩をびくりと震わせる。

 ……ぼく、間違えた?

 ぞわりと足下から不安と恐怖が這い上がる。何だか上手く息が吸えず、胸が苦しい。

 眉根を寄せたモモを見て、サラがはっと我に返ったように自由になる手でモモの肩に触れた。

「大声を出してごめんなさい。モモ。わたし、怒ってはいないから」

「…………ほんとう、ですか?」

「ええ。ちょっと……ううん、とってもね、驚いてしまったのは本当だけど」

「おどろいた?」

「……一言では難しいんだけど、その、ね。わたしエッチなことしたくてモモをお風呂に誘ったわけじゃなくて……わたしがモモぐらいの時はそういうこと考えたこともなかったから、だからモモの口からそういうことが飛び出してきて吃驚して、頭が真っ白になってしまったの」

 ……ああやっぱりぼく間違えたんだ。

 沸き上がる不安に心が揺れる。どんな罰が下るだろう。

「サラさまごめんなさい、ぼく見当違いもいいところだ」

「でもわたしの期待に応えようと考えてくれたんでしょう?」

「はい……」

 俯いたモモにサラの手が伸びる。すくい上げるように顔を上向かされる。

 鼻先に柔らかいものが触れて、離れていく。

 今のは、とモモの視線はサラの唇へと向かう。

「……エッチな話はモモがもっと大きくなってから、しましょう」

 はにかむサラの目元は少し朱がさしている。

 これはあれだ、秘密の約束だ。

 モモは零れんばかりに目を見開いて、頷いた。

 次は間違えない。

 

 

 


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