さあさあと、朝から霧のような雨が降っている。
こんな日は、この州のあるじ、アシュリー・ヘイズの機嫌が悪いのだとヒトは言う。実際のところ、本当にそうなのかモモは知らないが、きっとあるじの能力と天候を絡めただけのことだろう。
人間から世界の支配権を奪ったヒトだけど、天候を掌握するまではまだ至っていない。
遙か頭上から降り注ぐ雨は、蛇口から流れる水以上の忌避感をヒトにもたらす。だからヒトは外出自体を避ける。
なのにモモのあるじであるサラは、今日、休まず学校へ行ってしまった。
彼女は窓の外を覗いて「このぐらいだったらお風呂と変わらないわ」と、心配するモモに笑って言い聞かせた。通学と行っても移動は車だ。建物に移るほんの一時、しずくにさらされるだけであると。
雨音を聞いて真っ先に、今日は家で一緒にいられるかもしれないと考えたモモはちょっとがっかりした。同時に、あるじを心配するより、構って貰えるかどうかを先に考えてしまったことを反省した。
……ちょっと浮かれてた。
一人になったモモは、とある場所へ向かった。
玄関にほど近いその部屋は、そこだけドアの造りが違う。部屋のぬしに合わせて軽い力で開くようできている。
耳のいい彼は、モモが入ってくるのを分かっていて、ドアの方を向いて待っていた。モモの身体より少し大きな犬が、床に寝そべっている。
クリムだ。首輪に仕組まれている翻訳機がみんなとの意思疎通を可能にしている。
「おう、モモ、どうした」
「クリム」
モモは彼の側へ寄っていって、抱きついた。首筋へ顔を埋めれば、クリムが鬱陶しげに唸る。
「なんだ、暑苦しい」
そうは言われても手放したくない、そんな気分なのだ。
「ごめんちょっとだけ」
「……ちょっとだけだからな」
「うん」
なんだかんだ言うがクリムは優しいとモモは思う。
「で、今日はどうした」
「……サラさまに気をつかわせちゃった」
モモとしてはとても大事なことなのだが、口にした瞬間、クリムに鼻で嗤われる。
「なんでわらうの?」
「だっておまえ、俺に抱きついてくるとき、いっつもそれじゃないか」
「……そうかな?」
「そうだよ。で、今日は? なに言われた?」
「……雨降ってるから、つい、今日は一緒にいられるかもって考えちゃったんだ。上手く隠せたと思ってたのに……ごめんね帰ったらいっぱい遊んであげるからって、言われちゃった」
「サラさまがかまってくれるって言うんだからいいじゃないか」
「それは……そうだけど」
「……おい、はなせ。くすぐったい」
どうやら掛かる吐息がこそばゆいらしく、クリムがモモの腕の中から抜け出そうと身じろぎする。
「あ、ごめん」
放してやるとぶるっと頭を振って、床を前足で叩く。
「おいモモ。おまえの仕事はなんだ」
モモは居ずまいをただして、答える。
「……ご主人様の心を、時に寄り添い、慰めること。ただし、できると驕るな。請われるままに応じる、それでいい。考えすぎては鼻につく」
繰り返し言い聞かされた言葉はすらすらと口をついて出る。
「わかっているなら、うじうじするな。かまってくれるって言うんだから、ありがたく享受しろよ」
「……うん」
まったくもってその通りだ。
悩んでいる暇があったら、待っている間にできることを探した方がよっぽどいいに決まっている。
「それとな、いいかげんに俺に抱きつくのはやめろ。ブラシ掛けならゆるしてやるから」
……手入れの行き届いた毛並みをブラッシングしてもつまらないのに。
不本意ではあるが、モモは頷いた。心のよりどころであるセンパイには嫌われたくない。
いくらか前向きさを取り戻したところでモモは立ち上がった。
「もう行くのか」
「うん、そろそろベティさまが来ると思うから」
「おお、そうだな、そんな時間か」
これから構って貰える期待と興奮にぱたぱたとクリムの尾が揺れる。それを微笑ましく目に焼き付けて、モモはその場を後にした。
学校に通うわけでなく、明確な義務もないモモに時間的拘束はない。誰かを手伝ってもいいし、何をしなくてもいい。けれど闇雲に邸内をうろつくのは考えものだ。口に出して言われたことはないけれどきっと、造りものが目障りのヒトだっているはずなのだ。なのにアーヴィング家の主人ならず使用人たちまでもがモモを見かけて「どうしたの?」「なにか食べる?」なんて声を掛けてくるから、むずむずする。
ここのヒトたちはどうしてぼくにやさしいんだろう。
そんなもの、答えは一つ。
モモがサラの、当主の娘のものだからだ。
優しくされるたび、そんな当たり前のことを忘れそうになる。もちろん本当に忘れることなど出来やしないのだけれど。
「――あ、ロゼ」
サラの部屋まで戻ってくるとカーテンが窓の半分開いていて、内にせり出した桟の上で器用に灰色の猫が寝ていた。彼女がモモの声に反応してのっそり顔を向ける。
……出てきたときには確かにいなかったのに。
いつの間にと、そう思って見つめていると、
「あんたが出てくのと入れ替わりに入ったんだよ」
「ぼくまだ何も言ってな……」
「長生きしてたらそれくらい分かるんだよ」
そう言ってロゼは欠伸をした。彼女の首輪にもクリムと同じ仕組みが施されている。
……そういうものなのかな。
まだ八歳のモモからすればロゼはおばあちゃんの域だ。そんな存在がそう言うのだからそうなのかもしれない。
「ちょうどいい、寝物語に何か話しな」
「……そこで寝るの?」
「お前さんが来るまでは寝てたんだよ」
「ご、ごめんなさい」
「……ほら突っ立てないで、こっちへ来るんだよ」
「あ、はいっ」
慌てて駆け寄れば、本当に眠そうな欠伸に出迎えられる。
「眠いのに、お話いる?」
「あたしが眠れるような話をするのがお前さんの仕事だろう?」
できないっていうの、と半眼で問われて、モモは返す言葉に詰まる。
やりたくない。できません。
この二つはモモの選択肢の中にはない。出来ないならできるように努力する、その結果不興を買うとしても。
……眠くなる話、かあ。
退屈な話とそれは必ずしもイコールではない。
そしてモモが知っている話は実体験よりも、叩き込まれた古今東西のものの方が多い。
ふと視線が窓の先に向かう。
「……この雨ってほんとにヘイズさまが降らせてるのかな」
閉ざしかけた瞼をひくりと瞬き、ロゼが視線を向ける。
「藪から棒になんだい」
「あ、と。まだ雨降ってるなって思ったら、その。……ロゼは本当のところ、知ってる?」
するとこれ見よがしにため息を吐かれた。
「いくら長生きしてるっていっても、あたしゃただの猫だよ、知るもんさね。……まあ、こじつけだと思うけど」
ひとところを支配するようなヒトには突出した異能が備わっている。
この霧の州を統べるヘイズが持つのは名の通り、霧を操る力。真夜中になると州中が霧に覆われる。
通称、不可侵の霧。
敵意のある者の侵入を阻み、内にある敵を選別して排除する。
ヒトの作る州は、異能を持つヒトを中心に、それを信じる者とで形作られている。
モモは頭の中の相関図を開いた。そこには会ったこともない人物が写真付きで載っている。
グレン・アーヴィングはヘイズの右腕と言われている。直接聞いたことはないが、学生時代からの親友らしい。
「ロゼはヘイズさまと会ったことある?」
「会いたいの?」
モモは頭を振る。
もし会えたなら写真を更新しなきゃな、と思っただけだ。もっともモモが彼に直に会える機会なんてそうないだろう。
「ここ数年、ヘイズさまの方から来たことはなかったと思うけど。……まあ、気長にしてればそのうちあるかもね」
「そっか、楽しみにしておくね」
そう答えたら、なぜか不愉快そうに鼻を鳴らされた。
「あんたのせいで眠気が飛んでいっちまったじゃないか」
「ご、ごめんなさい。眠くなるお話だったよね、うん。ちゃんとするから!」
「……ふん」
もう一度鼻を鳴らして、ロゼが目を閉じる。
モモは無難な落としどころを探して、モモも知らないどこか遠い異国のおとぎ話をすることにした。
ロゼは時々耳をぴくぴくさせながら、どうやら効果はあったらしく、眠りに落ちた。
ほっと胸を撫で下ろしながら、モモは再び窓の外を見る。
雨はまだ続いている。
……そうだ、あとでグラハムさんに、サラさまのお迎えについていってもいいか訊いてみよう。
グラハムは、仕事で不在のグレンにかわって家の中のことを取り仕切っている男だ。モモの目にはもうおじいちゃんといった感じで、現在彼の孫が見習いとして彼にくっついてまわっている。
……かまわないって言ってくれたらいいんだけどな。
焦がれるような気持ちで硝子窓を覗く。そこに映る、頼りない自分には気付かないふりをして。