モモの、まだ子どもらしい丸い手を取って、サラが満足げに息を吐いた。
定期的にやすりをかけ、仕上げにクリアネイルを塗ったモモの爪はぴかぴかだ。サラはいつもモモを膝の間に座らせ、自身に寄りかからせて作業を行う。
「検診、再来週だったわね」
「はい」
「モモがここへ来てもう、半年なのね……ちょっと背が伸びた?」
「そうですか?」
肩越しに、サラを振り仰ぐ。
服がきつくなったとか、サラと目線が合うようになったとか、そうした実感は今のところ無い。
「言ってみただけよ。でもモモは男の子だし、そのうちきっと、わたしより大きくなるわ」
「サラさまより、大きく……」
いまひとつ想像できなくて、モモは身体をよじってサラに正面から向き直った。
「もちろん、わたしだって今より大人になるわ」
モモからすれば大人みたいなサラが、さらに成長を遂げる。想像しようとしてやっぱりモモは限界の壁にぶち当たった。
難しい顔のモモに、サラが優しく微笑んだ。
「慌てなくても、毎日一緒にいればわかるわ」
初めての検診は難なく終わった。
ここ数日のモモは、貸与されたタブレットで『お菓子』に関する書籍を検索して、片っ端から読みあさっている。
……あと二時間。
表示枠で、サラの下校時刻となるのを確認する。
時間の有意義な潰し方を探していたモモはふと思い立った。
ヒトの主食は人間の血液だが、他の物も食べることはできる。
とはいえ、そうしたものは嗜好品の分類で、人工血液などが普及し楽に摂取できるようになった結果、家庭料理というものはあまりされなくなった。料理というものは外で購入するもの、という意識が強い。
モモはふと閃いた。
菓子作りはするのはどうだろう。女性は大抵甘いものが好き、というよく分からないデータがモモの頭の中にはある。
もしも美味しくて見た目も可愛くてきれいなものを作ったなら、サラに喜んで貰えるのではないか。
それなく探りをいれれば、甘い物は嫌いじゃないという。
俄然、やる気が湧いた。
ただしモモは、バートリーで基本的な器具の使い方や調理法を短期間に叩き込まれたのみで、きちんとしたものを作ったことはまだない。だから失敗を最小限に留めるためにもせっせせっせと知識を取り込んでいる最中だ。グラハムにも話をして、キッチンの使用許可を取ってある。アーヴィング家のキッチンには専属の料理人が一人いるが仕事内容は給仕係と等しく、モモが話をしたなら「ぜひお手伝いさせてくださいな」と目を輝かせていた。
「初心者でもかんたん……」
本当に簡単なのだろうか。半信半疑でレシピを読んでいると、誰かがドアをノックした。
「モモさん、ちょっとよろしいかな」
この声はグラハムだ。
返事をすれば、グラハムがドアを開けて入ってくる。グラハムの律儀なところは、部屋にモモがいると分かっていてもきちんとノックして、ドアが開くのを待つところだ。モモはヒトでない。ただの愛玩物だ。そんな対応をされたら困るとそう伝えたら、笑いながら「クリムやロゼにしていることですよ」と言われてしまい、どうしていいのか分からずそのままになっている。
「はい、どうかしました?」
「ええ。モモさんにですね、お嬢様のお迎えに行って欲しいのです」
思わずモモは背後の窓を振り返った。
「あの……今日は晴れてますけど」
首を傾げたら、グラハムがにこにこと笑って言った。
「別に雨じゃなくてもかまわないんですよ」
モモは目を丸くする。
……お迎えって雨の日じゃなくても同行できるんだ。
勝手に思い込んでいたから、目から鱗だ。
前回の、雨の日だ。グラハムにお願いしてみたら、サラに傘を差すという大役を任された。サラは、昇降口に立っていたモモを見るなり目を見開いて言葉を無くしていた。それから気を取り直して「ありがとう」と笑った。
「でも今度からはわたしがお願いしたときだけにしてね」と約束させられて、少ししょんぼりしたのは胸にしまってある。
「ぼく、行ってもいいんですか」
「はい。サラお嬢様のご希望ですよ」
「サラさまの、」
出かける時はそんなこと、一言も口にしていかなかった。
……ぼく、行ってもいいんだ。
じわじわと胸の内から喜びがあふれ出す。
「時間はこの前と同じです、それまでに支度しておいてくださいね」
「はい」
よろしい、というように頷いて、グラハムが踵を返す。
ドアを閉めて、モモは深呼吸した。
……動揺している場合じゃない、とにかく着替えないと。
おかしな格好をしていって、サラが笑われてはいけない。とはいえ、モモが持っている服は限られているから、そう悩むことはない。
覚えていた時間より気持ち早く玄関へ向かうと、ここへ初めて来たときモモが乗ったのより二回りほど小さい乗用車がもう、横付けされていた。
運転手のトレーシーが気付いて手を挙げる。
「お、きた」
「よろしくお願いします」
「ああ、話は聞いてる。しかしだな、今からそんなんじゃあ着く前に酔うぞ、もっと楽に構えてろ」
「……ぅ、はい」
そんなにも畏まって見えるのだろうか。自分ではよく分からず、モモは苦笑する。
トレーシーとはそんなに会話をしたことはないが、外見は優しいおじさんだ。一人娘がもうすぐ結婚するらしく、それが寂しいらしい。
「じゃ、行こうか」
わざわざモモのために助手席を開けてくれたので礼を言い、モモは車に乗り込んだ。
サラの通う学校は主に富裕層の子女が通うところで、敷地内のロータリーには似たような黒塗りの高級車が並んでいる。
助手席でそわそわしていると、トレーシーが笑った。
「緊張してるのか」
「すこし……」
「心配しなくてもドアの開閉はお前に譲るさ」
「ありがとうございます。でも、そっちじゃなくて……」
「んん? ああ、ヒトに緊張してるのか」
モモは頷いた。
基本生活が邸内だけのモモが顔を合わせる相手は限られている。だからそれらへの対処法も分かっている。決まっていると言ってもいい。
けれどここはモモの領域ではない。振る舞いには充分、気をつける必要がある。
サラの、ひいてはアーヴィング家の株を下げるようなことがあってはならない。
「なんかやらかしたとしても、お前がにこにこーって笑ったら大抵の奴は許してくれるよ。ここにいるのはお嬢様やお坊ちゃまばかりだしな。お前みたいな可愛らしい見てくれが嫌いな奴は滅多にいないさ」
「……ありがとうございます」
……そうだ、そこだけは自信を持とう。
モモは車窓から昇降口を見つめる。
制服姿の少年少女が一人、また一人と現れ、石段を下り、迎えの車に吸い込まれていく。
サラを見つけたのはトレーシーが先だった。
悔しいがヒトと人間との身体能力の差である。しかもトレーシーは目がいい、それを買われて運転手をやっているのだと自ら触れ回るくらいである。
モモはようやくといった気分で車から降りた。サラが降りてくるのを待つ。
「サラさま、おつかれさまです」
サラが労うように、モモに向かって微笑んだ。
「モモが来てくれるって分かっていたから、退屈な時間も平気だったわ」
なんて嬉しいことを言ってくれるのか。じんわり胸が温かくなった。会えるのを楽しみにしていたのは自分だけでなかったらしい。
サラが乗り込んだところでドアを閉めようとしたら、袖を引かれた。
「あなたもこっち」
「え?」
「ほら、はやく」
戸惑いながら急いでサラの隣、後部座席へ乗り込めば、いつの間にやら背後に控えていたらしいトレーシーにドアを閉められた。
前回の雨の日は、傘やモモのせいでサラが濡れてしまうというのもあったし、そうでなくとも当然の心得で助手席に座ったが、帰り道どうしてかサラがずっと不満げだった。理由を聞いても何でもないと言うし、その後のやりとりはいつも通りだったから気にとめるのをやめたがひょっとすると、その辺りのことが関係するのだろうか。
知識を詰め込まれているとはいえこの世に生を受けてまだ八年、そんなモモに乙女心の機微が手に取るように分かるはずもない。
結局いつも、サラが求めるのだから応じればいいのだ、というところで思考を止めてしまう。
だって自分はそういうふうに造られたものだ。
「今日は何をしていたの?」
「お菓子の作り方を調べてました」
「もう何を作るか決まった?」
「それが二つ……どっちにしようかなって……。あ、サラ様には秘密ですよ」
「ふふ、楽しみにしてるから」
「……お店のみたいにおいしくなくてもがっかりしないでくださいね?」
「言ったでしょう、モモが作ってくれるのが嬉しいの」
きっと気遣ってそう言っているわけでないと、そう思うから、モモはその思いに応えたいと強く思う。
車窓の景色にモモは違和感を覚えた。
「サラさま、あの、道が違うような」
サラは意味深に笑うだけで答えない。だけどいつになく何だか楽しそうである。遠足を楽しみにしている子供みたいな、という人間が使うらしい表現がモモの頭を過ぎったが、サラに限ってそんなことあるだろうか。
サラはいったいどういうつもりなのだろう。
いつか表情を見ただけで何を考えているか、望んでいるか、分かるようになりたい。
行く先を案じて、モモは車窓をじっと見つめた。
霧の州は、ヘイズの邸があるあたりを中心として、そこから離れるほど建物の密集度が下がる。そういう造りになっている。州自体の面積はさほど広くない。州の地図を評して「蜘蛛の巣」というのは有名な話だ。巣でいう外縁付近は主に工場系が占め、中心部には公的機関が位置する。
目にとまった道路標識に『C-6』とあるのを見つけ、モモはすぐさま記憶と照らし合わせる。たしかこの区画は高級ブティック街があるところではなかったか。
「モモの服を作りに行くのよ」
何でもないことのようにサラが言った。モモは自分の耳がおかしくなったかと思った。
「ぼくの?」
目抜き通りにはいると、ただの舗装された道から模様の入った石畳に変化する。
一軒の店の前で車は止まった。トレーシーが早速回り込んで、ドアを開ける。
「さあモモ、行きましょう」
そう言って、サラは先に降りてしまう。正直モモは混乱していたが、降りないわけにもいかない。慌てて後を追いかける。
自動ドアの向こうがまるで勝手知ったる我が家のように、悠然とサラは店内に入っていく。しかも出入り口の脇に控えている店員が愛想良く「お待ちしておりました」などと言うものだから、モモは驚きつつもどうやらここは覚えておいた方がいいらしいと察する。
さりげなく店内に目をやって、サラが着ている制服と同じものを纏った人形が何体かあることに気付く。なかには男子のを着たものもある。
モモがじっと見ているのに気付いたらしく、サラが言った。
「あれを着るのよ」
モモは吃驚して、サラを見上げた。驚くあまり、声が出ない。
「あれって……でもあれ、制服ですよ?」
「そうね。実は来月から、モモも通うことが決まったのよ」
「え?」
またまた耳を疑う。
「お父様といろいろお話をしたの。モモはとても真面目だし、いい子だし、まだ八歳だけどいろんな事を知っているでしょう? だからね、ずっと邸にいるのはもったいないんじゃないかしらって」
「サラ様、でも、ぼくは……」
「うん、そうね。だからモモはあたしと一緒に学校へ行くのよ。教室も、授業もぜんぶ一緒」
「……サラさまといっしょ、」
その言葉はとても魅力的に聞こえた。
「そう。モモはわたしを守って、わたしはあなたを守る」
モモはぱちぱち目を瞬いて、改めてサラを見た。
優しくも自信に溢れた、美しいお姫さま。
そんな彼女を、守る。
役目が一つ増えた。
ただ愛でられるのもそれはそれで素敵だが、主人の盾になれるのなら、そんな栄誉なことはない。
なによりサラといられる時間が増えること、嬉しい。
ヒトのため、尽くすことはモモの存在意義である。
「サラ様、準備が整いましたので奥の方へどうぞ」
店員によって、立体スキャンを行う装置の前へと案内される。そのヒトだけに合った一点物を作るのは、この界隈では当たり前のことらしい。
この店は学校制服だけでなく、霧の州のさまざまな機関の制服も取り扱う専門店だった。元はこんな高級ブティック街でなく違うところに店を構えていたが、たとえ作業着でも妥協しないことから、丈夫で長持ちしてしかも動きやすいと利用する客が絶えず、ついにはこの区画に移転と相成った。
「はい、じゃあ始めますねー」
スキャンといえば裸というイメージがあるモモは、てっきりここでもそうかと思ったのがその必要なかった。床に設置された丸い台座の上に立ち、指示されたとおり両手を身体の横、水平にあげる。モモは自分の身体を元に台座の直径を推測し、おそらく二メートルほどと考えた。
台座の対となるものが天井にあり、そこから筋状の赤い光が台座に向かっておりてくる。筋が帯になり、繋がって光のカーテンを形成する。
店員に言われるまま、しゃがんだり、身体を捻ったりしていく。
「はい、これで終了です。お疲れさまでした」
光のカーテンが薄くなって、消失する。
「お急ぎでなければ、完成まで三週間ほどお時間を頂きますが?」
「ええ、それで構いません」
サラと店員が何やら話を進めているが、モモはその脇で置きものだ。
「本日はありがとうございました」
店員に愛想良く見送られて店を後にする。出来上がったものは邸まで届けてくれるらしい。その場で試着して、最終調整をしてみてやっと完成だという。
「サラさま、ありが」
帰りの車内で早速感謝を伝えようとしたら「だめ」と途中で遮られた。
「それはまだだめ。制服が届いて、学校へ行ってから。ね?」
形容しがたい感情が胸の奥から込み上げて、わだかまる。
自分が学校へ通うなんて想像したこともなかった。行きたいと思った事も無かった。おそらく、いや間違いなく、サラ、ひいてはアーヴィング家はモモのような人間からすれば『よい買い手』に分類されるヒトだ。
優しいヒトたちだ。
期待に応えたい思わせるヒトたちだ。
本当に自分は恵まれているとモモは思う。
……サラさまがくれた機会だ、無駄にするもんか。
だからモモの返事は決まっている。
「はい、サラさま」