目の前で弾けた小さな気泡に、モモの覚醒が急速化する。
ゆっくり瞬きして、現状に想いを馳せる。
モモがいるのは酸素が高濃度に溶けた水槽の中、泳ぐためのそれでなく実験用のものだ。縦に長い筒型筐体は、巨大試験管とも言える。モモの頭部を覆う無骨な鈍色の帽子から伸びる無数の線が絡み合って束となり、筐体の蓋部と繋がっている。
冷え冷えするような白色光に満ちた空間の真ん中に、筐体がどんと設置されただけの寂しい部屋。
モモから見た前方、壁の上部三分の一だけが透過材でできているのだが、目線の高さが合わず、向こうの部屋の明かりしか見えない。
明かりが点いているのだから無人ではないのだろうと思う。
……消灯とか時間厳守とか無頓着なとこあるからなあ、みんな。
モモはよく知るバートリー社職員面々の顔を思い浮かべた。ここでは明かりがあるからそこに必ずヒトがいると断言できないのだ。
「――排水を開始します」
スピーカーから人工音声が流れた。
それを合図に筐体の底がスライドして網状板が露出し、水位がゆるやかに下がっていく。それに伴って浮いていたモモの身体も下へと引っ張られる。
頭部を締めつけるように覆っていた帽子のロックが外れた音を確認して、モモは自ら脱いだ。軽い解放感に息を吐く。手を放した途端、帽子はするすると蓋の方に引き寄せられた。
排水が終了するやいなや、筐体の前面が二つに割れる。
顔に張り付いた髪を後ろになでつけて、モモは筐体の外に出た。
途端、狙い澄ましたように温風が吹き付けてくる。モモの濡れた肌を、髪を、瞬時に乾かすその風圧に思わず目を眇め、しまいには瞑っていた。
ひとしきり吹き荒れた風が止んだところでそろっと目を開ける。ぐるっと部屋を見渡して、大きく息を吐いて、吸い直した。
小さな物音に視線を前方に向ければ、つるりとした壁の一部がスライドして棚が現れる。
筐体に入る前に脱いだ服がそこにあった。
そう、今のモモは全裸である。
けれどそれを恥ずかしいとは思わない。
なぜならバートリーのみんなはモモにとって身内、いや、それ以上だ。彼、彼女らなくしてモモはこの世に生まれてくることは出来なかった。生まれたときから全てをつまびらかにしてきたから隠そうという発想がないし、そういうものだと思っている。
無意識に心臓の上、アーヴィング家の印に触れる。薄れた感はないが、そろそろ押し直すころかもしれない。
服を着て、きっとぼさぼさだろう髪をさっと手ぐしで整えたところで、スピーカーから職員の声が流れる。
「おつかれモモ。次はシェネルさんのとこへ行ってくれ」
作業開始時にも聞いた声だ。
……ちゃんと隣に人、いたんだ。
服の襟をただしながらモモは呑気にそんなことを思った。
勝手知ったる社内。どこに誰がいるのか、モモには手に取るように分かる。
だけどそれもそのうちわからなくなるのだろう。そう考えると少し寂しいが、仕方のないことでもある。モモはバートリーの商品だけど、出荷されてしまったのだから。
検診は、目安として一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月そして一年ときて、あとは一年ごとの予定になっている。検診というが、目的は主に情報収集である。
これはちょうど一年検診、といってもアーヴィングで暮らすようになってきっちりそれだけの日数がたったわけでない。
加えて付け足せば、二ヶ月くらい前にもここに来ているのだが、それはまあ、カウント外だろう。
「気分はどう? 気持ち悪かったりしたらすぐに言うのよ?」
シェネルはモモのために湯気の立つ紅茶を淹れて待っていた。
鳥のさえずりが流れるこの部屋の壁には、素人が一見しただけでは分からない数字の羅列が流れる大型モニターが一台はめ込まれている。
どうやらモモの設計図なのらしいが、説明されても専門知識がないから「へえ」と凡庸な返ししか出来ない。
モモは貴重な成功例だから、この設計図は社が掲げるべき目標としてここに展示してあるのだそうだ。といってもさすがに展示用だから、重要箇所は隠蔽してあるらしい。
「……身長と、体重の増加率は順調じゃないかしらね」
シェネルが手元のタブレットを操作して言う。
「順調に伸びてる?」
「ええ。今のところ設計案どおりよ。将来的なモデル、見る?」
「頭の中にあるから大丈夫」
そう答えたら、シェネルは満足そうに微笑んだ。
商品価値を自覚させるためにと、完成予想図もとい青写真は生まれて早い段間ですり込まれた。瞼を閉じれば、年代ごとの無表情な自分の顔を呼び起こすことができるほどに。
反射的に脳内でスライド展開してからふと、モモは不安になった。
成長して、サラに「予想と違った」と言われたらどうしよう。
そうしたらサラは自分を捨てるだろうか。
「……モモ、どうかした」
視線が俯いていたらしく、シェネルに心配されてしまった。
「なんでもない、です」
モモは紅茶を飲んで誤魔化そうとした。
捨てられたら、その時だ。今考えることじゃない。だけど願わくば成長していく自分のことも好きでいて欲しい。
「ひょっとして、帰りたくなった?」
揶揄を含んだ問いかけに驚いて、紅茶を流し込んだ喉が鳴る。
シェネルはタブレットを机に伏せて、頬杖をついた。
「あなたのご主人はいい子ね。この前言わなかったけど、あなたが検査されてるあいだ、青白い顔して、今は何を調べているんですかなにをやっているんですかってあたしたちに逐一訊いてきたのよ」
「サラさまが?」
その様を想像して、モモは切なくなった。
煩わせたくはないのだ。だけど心配されてちょっとだけ嬉しく感じる自分がいてもやもやする。
「……早く大きくなりたいな」
願望が唇から零れ落ちる。
大人になれば、そうしたらきっと魔法を使っても熱が出たりして困ることがないのに。
大丈夫だと心から言えて、それを信じて貰えるのに。
成長するのが怖いくせに、大人になりたいと思う矛盾。
「ごめんね、あなたじゃなかったら促進剤打ってもいいんだけど」
シェネルが切なそうな顔で言う。
親心と研究者としての心は別物なのだ。後者の方が勝るのは、モモが唯一の成功体であるのも大きい。
わかっている、とモモは頭を振る。
憂いてくれる、その気持ちだけでじゅうぶんだ。それが仮に、彼女がその気持ちに酔っているのだとしても。
促進剤を打たれてどうなるかわからない不安はモモも同じ、いや恐怖はもっとだ。変化するのは自分の身体なのだから。
モモは小さくため息をついた。
……はやくサラさまに逢いたいなあ。
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「モモ、こっち」
「モモ」
「モモ」
学校で、サラはいつでも自分の傍にモモをおいた。教室の席も彼女の隣だ。
ヒトの学校、それも少年期を迎えたものが主たる中等部にあって、まだ声変わりもしていない八歳の紅顔の美少年は異質、というか扱いに困る異物であった。
サラの行動は、自分の可愛いペットが他者にいじられるのは嫌だという心のあらわれなのだろうが、それがかえって周囲を刺激する結果となっていた。
「モモくん」
「モーモっ」
「モモちゃん」
年頃の女子には、モモの外見とサラへの忠犬丸出しな態度が何かしらのツボを刺激するらしく、事あるごとに頭を撫でたりお菓子をくれたりようとする。サラの目の前でやると冷ややかな一瞥を食らうため、彼女に嫌われたくないと考える者たちは必ず彼女の目を盗んでやった。サラはその痕跡を見つけては不機嫌になるのだが、もう暗黙の了解というか、いちいち噛みついたりしないと決めているようだった。
それというのもモモが不機嫌なサラの前で、
「ごめんなさい、サラさま嫌いにならないで」
捨てられたくない余り、思ったまま口走ってしまった。そんなこと許されない。どうしようと早くも後悔するモモをサラがぎゅっと抱きしめた。
「ごめんなさいモモ。べつにあなたのことを責めているわけじゃないのよ」
優しい匂いと柔らかい温もりにくるまれてほっとして、モモはその先を考えない。あるじの胸のうちを知らない。だから悶々とサラの憂鬱は続いている。
その原因はなにも、モモに対して好意的な女子によるものだけに留まらない。
紅顔の美少年というものは性別を超えても受け入れられるようで、男子の中にも小動物を愛でるような感じでモモに接するものがいる。
サラとしては自分以外の者がモモにべたべた纏わり付くのは不快なのだが、それが好意からくるものだからしぶしぶ許容している。
問題は、悪感情の方だ。
モモという異物が自分達の中に混じることをみんながみんな、許容できるわけがない。
これには学校内におけるサラの立ち位置も関係がある。
多くを語らず、誰と戯れるでもなく、けれど周囲に埋もれることなくそこに凛と存在する。それが周囲が思うサラの姿だ。
そんな彼女が隣のヒトではない生き物に何くれと世話を焼き、微笑みかける。
理想との相違。
それを許容できない者が悪意を持って、サラの目を盗んで、モモに手を出す。
すれ違いざまに足を引っかけたり、肩を押したり。モモにだけ聞こえるように侮蔑の言葉を浴びせたり。
持ち前の身体能力と精神力で自己防衛をはかるモモだが、所詮は八歳の子供だ。
見て見ぬ振りをしても心の傷は蓄積される。だけどそれを疼かせ、サラを煩わせるのは嫌だ。だから己に向かってモモは唱える。
自分はヒトじゃないから仕方ない。
ぼくはサラさまのものなんだ、だからサラさまだけでいいんだ。
何を言われたっていい。自分が何であるか思い出せ。ぼくはヒトのために造られたもの。
何ごともなかったように振る舞うモモだが、サラとて愚かではない。自分の大事なものの変化ぐらいすぐわかる。モモが触れて欲しくなさそうにしているからあえて黙っているけれど、それにも限度がある。
許容という器に溜まる水がいつ溢れるか。
目に見えぬそれが今か今かと注がれ。
自然に溢れる前に器の方が先に壊れた。