モモは教室でサラを待っていた。
午前中の授業がすべて終わりこれから昼休みだと、一時の解放感から教室の空気がざわつく中、校内放送で呼び出されたサラが職員室へ行ってしまったからだ。
彼女がいなくなった途端、モモに構いだす者もいた。けれど、ひとり、またひとりと、昼食をとるために教室を出て行く。
そのほとんどの行く先は食堂だ。
ヒトというのは不思議なもので、自分達の食事風景を美しさに欠けると思っている。食堂はそのためだけに用意された閉鎖空間だ。窓には分厚いカーテンがひかれ、時間になると入り口は閉め切られる。
言葉は消え、咀嚼と息づかいの音。生臭いにおい。本能が支配する独特の空間は、資料でしかモモは知らない。仮に興味があったとしても、モモには近寄ることが出来ない。だってそれは自ら死地に飛び込んでいくようなものだ。
もしサラが望むのなら、その時はそうするけれど。
生徒達の食事場所を一箇所に指定するのには、清掃が楽だというのも理由にある。そこかしこを毎度真っ赤に染められては清掃人もうんざりしてしまうからだ。
そういうわけで次第に教室から人がいなくなり、やがてモモは一人になった。
だけど、それはおかしな事だった。
ヒトのすべてが食事の際、血を啜るわけでない。
サラのようにタブレットで済ませ、あとはお菓子を摘まんだりする。そういう者もいるにはいるのだ。彼ら彼女らはわざわざ食堂へはいかない。
だけどこの日に限って珍しく、モモだけを残してみんなどこかへ行ってしまった。
……こんな日もあるんだなあ。
少しばかり心細くなったモモだけれど、たまにはこういうことがあるのかも知れないと思うことにした。
早くサラが戻ってこないかなと誰も見ていないのをいいことに、椅子に座っても床につかない足をぶらぶらさせて、ちょっと行儀悪いけどいいよね、なんてこっそり笑う。
そんなことをしているときに限って間が悪いというか、誰かが教室に戻ってきた。
がらりと戸が開く音に反応して顔をあげると、はじめて見る女子がそこにいた。
……だれだっけ?
分からなくてつい凝視してしまう。
サラにくっついて日々を送っているため、モモはこの教室の生徒以外との交流がほとんどない。だから学校内で知らない顔の方が圧倒的に多い。それがいいことかどうかと言われたら、よくない自覚はモモにもある。
顎のラインで黒髪を切りそろえた彼女は、戸惑うモモの視線に気づいて苦笑いした。
「モモくん、だよね」
「そう、です、けど」
決して人見知りではないのだが、初対面だとはっきりしないことと一人でいる心許なさから、言葉が揺れた。切れ切れの返事を受けて、少女の瞳が微かに翳った。傷ついた色があった。
モモは少し申し訳なくなった。
「あたし隣の隣のクラスなんだけど……しらないか」
モモは正直に「ごめんなさい」と謝った。隣もわからないのに、その隣なら尚更だ。もし彼女にサラのような、一目で心惹かれるような強さがあった、廊下ですれ違うなりしたときに覚えていただろう。
彼女は苦笑するだけで、あっさり引き下がった。
「ううん、いいんだ。それよりさ、きみに伝言あって」
「伝言?」
「そ、アーヴィングさんから。あたしも職員室にいてさ、そこで頼まれたんだ。もう少し掛かりそうだから、先に中庭に行っててほしいって」
「サラさまが……わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
口角をあげて、彼女は身を翻した。
……あ、名前。
閉まった戸を眺めて、モモは彼女の事を思った。
もしも廊下ですれ違っても、呼ぶ名前が分からない。そう考えてから、サラに訊けばいいのかと気付く。
……行こっか。
モモは、席を立った。ロッカーから、アーヴィング家の料理人がモモのためにわざわざ作ってくれた弁当を取り出す。
中庭は、これまで雨が降らない限り、サラと昼食を食べる場所にしていた。そこは憩いの場を兼ねてベンチや小さな四阿があり、だいたい昼になると食堂に行かない者たちがそこを利用する。
……今日のおかずはなんだろう。
弁当はモモの分だけだが、サラがつまんでもいいように量は少し多めだ。
意気揚々と廊下に出たモモだが、数歩も行かないうちに漠然と、言いようのない不安にとらわれた。
廊下に誰もいない。
そういう時もあるにはあるのだろうけれど、まるでこの階自体が静かだ。
歩きながら何気なく背後を振り返り、心臓が止まりそうになった。
目が合う。
ぞわっと鳥肌がたった
……いつ?
三メートルほど後ろ、さっき伝言に来てくれた彼女がいた。
これからサラと昼食だからと自分は浮かれていて気付かなかったのかもしれない。
都合良く考えようとしたが、駄目だった。
はっきり結論づけたくはないが、きっとそういうことではないと冷静な部分が楽天的な回答を否定する。
ヒトの身体能力を鑑みれば、人間相手に足音や気配を消してみせるのは容易なこと。
彼らは生まれながらの捕食者なのだ。
どういうつもりかしらないが彼女が笑ったから、モモは努めていつもどおりの笑みを浮かべ、前へ向き直った。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
モモは少しずつ、足を早めた。
不気味なことに、それまで聞こえなかったはずの彼女の足音が聞こえるようになった。足音はモモの後ろをついてくる。
モモの足の速さにあわせたように、つかず離れずついてくる。
見えない力で心臓を撫でられている、そんな気分だ。絶妙なさじ加減で距離は守られている。
彼女の目的はなんなのだろう。
……嫌がらせ?
それならモモが教室にいたときにすればよかったではないかと考えて、思い直す。悪意の持ち主の思考回路が単純明解なら、何事もあっさり解決している。世は平和だ。
とにかく、サラと合流しようと思った。
モモの安全地帯。
サラの前で自分に手を出してきた愚か者はまだいない。
まだ職員室にいるだろうか。もしそこにいなかった、どこだろう。どうしよう。
逸る心が、モモを駆け足にさせる。
階段の踊り場まであと教室一つ分というところで、引力にさらわれた。
「わっ――」
息が、詰まる。
思わず目を閉じた。暗い。目を瞑ったせいだけではない。が、確かめるにも開けるのは恐ろしすぎた。
おそらく人工の闇の中にいる。戸が閉まる音を一瞬だが、モモは聞いていた。
誰かに腕を掴まれて空き教室に引きずり込まれたのだ、と結論づける。ぎゅっと瞼に力を込めて、心を殺して、答え合わせのために目を開いた。
暗闇に馴染ませるようにそっと。
広がる視界に映るのが天井か床か判断し終える前に、何かに身体を受け止められた。
背中が何かに当たる。
軋む音にそれが机だと分かった。
経営者と生徒の保護者の見栄がたっぷり詰まった校舎には、使われていない部屋があちこちにあった。
暗闇の正体は、窓に引かれた暗幕だった。隙間から外の光がかろうじて洩れている。
縫い止めるように肩に置かれた手を視線で辿り、影のぬしを確かめる。
この暗闇もヒトにとっては大したこと、ないのだろう。
……だれ?
人間であるモモがその輪郭を見出すには少し時間がかかった。
モモを見下ろすのは少女だが、モモを追ってきた彼女ではないようだった。でも誰かはわからない。さっきの彼女同様、本当に知らないのかもしれないし、知っている子なのかも知れない。判断するには室内は暗すぎた。
迂闊な発言は命取りにしかならないから、誰と口にして問うことは憚られた。
暗闇に浮かぶ双眸には何だか熱がある。
人形みたいな大きな目だ、とモモは思った。
とにかくその眼差しは熱い。
それがサラだったならモモは同じかそれ以上の熱量で応えただろう。
そんなことを悠長に考えられたのは、少女が小さく舌なめずりするまでだった。
まずい。危機感からモモは身をよじった。
だけどそんなのは蟻が象に抵抗するようなものと変わらない。どこかに隙はないかと視線を経巡らせ室内の状況を把握して、打ちのめされた。
てっきり伝言来た少女と二人して共謀したくらいに思ったがそうではなかった。
モモの目でわかるのは気配と輪郭だけだが、実際この教室には、一クラス作れるくらいのヒトが集まっていた。女子だけでなく、男子も。
みなが何かしら、期待に満ちた目でモモを見ていた。
見えなくとも、感じることはできる。
室内に渦巻く異様な空気を察して、モモは怖気がした。
いろんなことを想定して知識だけは豊富に詰め込まれているけれど、モモはまだ、八歳の子どもだ。
この場の誰よりも人生経験は少ない。
だけど本能的な恐怖を、胸の内でサラの名を呼ぶことでひとまず耐える。
「泣くかと思ったのに」
少女が顔を寄せ、指でモモの目元を滑るようになぞる。伸びた爪の感触に鳥肌が立った。きっと手入れされ、ネイルが塗られていることだろう。
こんなときにモモはサラの少しひんやりした白い手を思い出す。
……サラさま、サラさま。
繰り返すことで縋る糸が強くなるのなら、いくらでもその名を呼ぶだろう。
「……ぼくをどうするつもりですか」
「わかってるくせに、聞いちゃうんだ」
少女の手がモモの首筋に触れ、そこをゆっくり擦る。可憐な少女の唇は、興奮したために伸びた犬歯でめくり上がっていた。熱い息がモモの耳元に掛かる。
うっとりと夢見るように彼女が言った。
「ああ、おいしそう……」
それが引き金だったように、待ちきれないと距離をじりじり詰める者がいた。犬歯をむき出しにしながら何とか踏みとどまって言葉で急かす者がいた。
ひとり、手足を縛られ、猿ぐつわされた状態で床に転がされた男子がいた。血走った目はただひたすらにモモに向けられ、猿ぐつわを涎まみれにして興奮の息を漏らしている。
誰も彼もが、エサを前にして目を血走らせていた。
狂気にさらされたモモの眦から一筋雫が零れる。
どうしようもなく、いやだ。
……サラさま。
モモは願った。
サラさまのところへ行かなくちゃ。
ぼくはサラさまのモノだから、
サラさま、ぼくの、ぼくだけの、
……おひめさま。
モモは死にものぐるいで頭を使った。
希望を着地点とする、あり得ない演算。希求する心が処理を加速させる。
傍目にはモモが観念しておとなしくなったようにしか映っていない。
モモの細い手を掴んで手首の柔いところに鋭く尖った歯先を突き立てようとしていた少女は、ふいに漂った血の匂いに驚いて、その出所に再度驚くはめになる。
鼻血だ。
急に鼻血を出したモモに、室内がざわめく。
血の匂いに煽られて、床に転がされていた男子が拘束を解いて飛び上がった。
演算中のモモはその場にあっていないようなもの、状況把握力が常より格段にさがっている。
押さえつける手をはね除け、モモの上から少女を力のままに退かし、マウントを取った彼の欲望に満ちた双眸に気付いた時。
モモの希望が叶った。