09


 

 どすんと鈍い衝撃に職員室の中はざわめきたった。

 音の正体は、無人の椅子がモモを受け止めきれずに一緒になって転がったからだ。

 モモの魔法というのは、つまりは転移だから、座標設定が要る。

 どうしてもサラのところへ行きたかった。

 使う対象を自分にしたことはなかったし、『サラのところ』なんてふわっとした設定が無理なことも承知している。転送装置は使用者に座標入力の正確さを求めるから。

 だけどモモが使うのはあくまで魔法だ。

 本物かどうかはさておき、魔法なのだ。

 それなら正確で詳細でなくとも、いけるのではないか。

 一縷の望みを託して、モモは賭けた。

 

 サラの体温と匂いに包まれたモモは、安堵から泣いた。

 生理的なもの以外で、泣いたのはきっと初めてだった。いつも働く感情制御もどこかへ飛んでいったらしい。

「……モモ、なにがあったの」

 モモの背を擦りながら、サラが訊いてくる。その声は不気味なくらい落ちついていた。モモは彼女の腕の中に抱きしめられていたから、サラがどんな顔をしていたのか分からなかった。

 時間が経てば証拠は消えてしまう。だけど正直告げていいのか。それは困ったことになるのではないか。

 サラのところへ無事たどり着けたから、それでもういいと思っているモモを、サラは放っては置かなかった。

「モモ」

 たった一言、荒らげたわけでもないのに有無を言わさぬ力があった。

 モモは嗚咽まじり、つっかえながら、空き教室のことを告げた。

 モモの言葉を拾った教師達の何人かが動く。が、それもサラの腕の中にいるモモは気付いていない。

 頭上を慌ただしい気配が行き交う。

「お願いします」

 誰かに向けてサラが言う。

 モモは後ろから伸びてきた手に、サラから引き離された。サラを見上げると大丈夫だというでもように頷かれた。振り向いて自分を抱えているのが養護教諭だと分かり、モモは肩の力を少し抜いた。

 サラが背を向ける。

 声を掛ける暇もなかった。

 モモが見たことのない速さで、サラは部屋を出て行ってしまった。

 ……そうだ、サラさまもヒトだった。

 知っていたのに、忘れていた。いや本当に忘れていたわけではない。サラがいつもモモにそういうところ見せないようにしてくれていたからだ。

 どれだけ慎重に自分に合わせていてくれたかを改めて識って、また涙が溢れた。

 ヒトであるところをむき出しにしたサラなど想像にもつかない。

 だけど彼女をそうさせて原因はモモにある。

 モモは悔しくて、切なくて、泣いた。

 

 ※

 

 モモが消えたあとの空き教室。

 甘やかされて育った子供たちは互いを罵り、殴り合いへと発展させていた。

 責任のありかや、モモがどこへ消えたのかは二の次で、誰が殴った突き飛ばしたかで揉めていたのだ。

 そこへやってきた教師達とサラが、みんなに冷静さを取り戻させた。

 一番効果があったのはサラだ。

 見たものを凍り付かせるような冷たい目で室内を睥睨し、

「誰がやったの」

 静かなその一言に空気が凍った。

 みんなの目が、鼻にそばかすがある少女に集中する。

「ひっ……」

 サラの視線を受けた少女が、悲鳴にも似た喘ぎを洩らす。

 いつにない素早い挙動でサラは、ちょうど窓の下で座り込んでいる少女のもとへいき、胸ぐらを掴んで立たせあげた。

 誰も、教師ですら、そんなサラの姿をこれまで見たことがなかった。彼女はいつだって声を荒げたり粗野なふるまいをしない、絵に描いたような優等生だった。

 室内を支配するのはサラの怒りか。侵しがたい空気に呑まれて教師までもが動けない。

「あのこははね、肉の一片、血の一滴、何もかもがわたしのモノなの」

 語気を強めるでなく、当たり前のことを語るようにサラは告げる。

 それなのに少女は恐怖した。

「いい? わたしのモノなの」

 少女はひたすら頷くことしか出来なかった。サラは少女の返事ににこりともせず、ただ、胸ぐらを掴む手を放した。

 ずるずるとその場に座り込んだ少女をじっと見下ろす。

 その瞳の温度に、少女は震えた。これが逆鱗に触れるということなのだ。ようやく思い知ったが、もう遅い。

 少女には『他者を誘導する力』があった。力自体はとても弱く、欠点は相手に一瞬でかからないことだ。

 思い立った彼女は根気よく力を使って、昼休みに無人の空間を作り上げた。

 すべてはモモの、いや人間の生き血を啜るため。

 自分達が罪を逃れるために、とっておきの逸材も見つけておいた。俗に言う変態だ。すべての罪をこれになすりつけて、自分達は美味しいところをいただく。

 きっと上手くいくと思っていた。

 モモが消えるまでは。

 

 ※

 

 学びの場に愛玩物ペットを連れてくる方がおかしいのだ。そしてそれを許可した学校側にも問題がある。

 ――うちの子は悪くないでしょう?

 生徒の保護者すなわち貴重な資金源を失うわけにもいかないから、学校側も考えた。

 やはりアーヴィング家のものに退学はまずかろうと謹慎処分を決めたものの、当の本人が自ら辞めると言ってきたから口ではていよく取り繕って、それをありがたく受け止めた。

 ……ぼくのせいだ。

 モモは何と言っていいか分からなくて、退学届を出して戻ってきたサラを出迎えて一言、ごめんなさいと情けない声で項垂れた。少しも顔を見られなかった。

 ……ぼくがもっと注意深ければ、もっと上手く身体を動かせたていたら、ぼくがそもそも学校に行かなければ……ああでもそれを取りはからってくれたのはサラやグレンだ。

 己のふがいなさをぶつける先を見失って途方に暮れる。

 ただ一つ今回は、魔法を使ったのにいつもより早く熱が下がって、きちんとその日の夕食の席に着けた。

 こんな時じゃなければ素直に喜べただろう。

「モモのせいじゃないって昨日も、おとといも。わたし、言ったでしょう?」

 サラは少し膝を曲げて、モモの顔を覗き込んだ。強張った表情筋をほぐすように、目元を、頬を、親指の腹で柔くさする。最初はどうも無かったが、続けられるとくすぐったくなる。

 遅れて入ってきたグレンがまだ玄関にいる二人を見つけたが、何も言わず、ただサラの方に目配せした。サラは小さく頷き返した。

 そんな頭上のやりとりをモモは知らない。

「モモ。これはみんな、わたしのわがままが招いたことなの。それにね、わたしモモに嘘ついちゃった」

「……うそ?」

「そう、モモのこと。守るって言ったでしょう?」

 何を言い出すのだとモモは頭を振った。ぎゅっと締めつけられる胸の苦しみを紛らわせるように、服の上で手が彷徨う。

「サラさまはぼくのことちゃんと守ってくれた」

「でも、怖い目に遭わせた。それにほんとうはわたしの目の届かないところで、もっといろいろされたりしていたんでしょう?」

 モモははっとして、それから己の迂闊さを呪った。

 ずっと上手く隠せていると思っていた。それもまた、今の動揺でそれも台無しだ。だけどそれでも、それぐらいなんてことないのだと口にしてしまうことはできない。

 だからモモは頭を振る。

 ……それに。

「サラさまがうそつきなら、ぼくだってうそつきだ」

 いったい自分にサラの何が守れていたっていうんだろう。

 答えなら知っている。

 何も。

 何にも、だ。

 サラは何か言おうと口を開き、おそらく慰めの言葉かなにかだろうが、でも言わずにのみ込んでしまった。

「モモは……学校楽しくなかった? わたしはモモが隣で楽しかった」

「ぼくは……ぼくも楽しかったです」

 それは紛れもなく事実だから答えを躊躇う必要もなかった。

「よかった。わたしの我が儘で決めたからどうなのかなって思っていたの」

「サラさまが一緒にいるのに楽しくないわけがないです」

「ほんとう?」

「はい」

「じゃあ、これからずっと楽しくなるわね」

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 検診が終わり、建物の外に出ると、既に迎えの車がきていた。

 助手席のドアにもたれていた少女がモモに気付いて、ぱっと顔を明るくする。

 ……サラさま。

 あいたかった。

 邸にいると思っていたから、わざわざ迎えに来てくれたことにモモは筆舌に尽くしがたい感動を覚える。しかも車の中じゃなく、外で待っていてくれた。

 嬉しすぎて何故か視界がぼやけるものだから、モモは首を傾げた。鼻の奥がつんとする。

 なかなか来ないモモにじれたらしく、サラの方が先に動いた。

「モモ。どうしたの、具合悪くなった?」

「あ、ちがいますっ。サラさまが迎えに来てくれると思わなかったから、その……嬉しくて、夢じゃないんだなって確認してました」

 そう言ったらなら、サラが何かに耐えるような顔つきになった。

「サラさま?」

 抱きしめられて、改めて実感する。

 ああ、夢じゃない。

 匂い、体温。

 ……サラさま。

 目を閉じて抱きしめ返せば、サラの嬉しそうな声が返ってくる。

「モモ、今日が何の日か知っている?」

「何の、日?」

 モモは頭の中で暦を開いた。

 古今東西の記念日やらが書き込まれているが、今日のところは空欄だ。ひょっとしてもっと規模の小さいものかと、モモが個人的に作成しているもの引っ張り出すものの、検診の終了日であること、あとは生誕日であるくらいしか記されていない。

 ……どうしよう、困った。

 しかし黙ったままではいられないから情けない気持ちで答える。

「すみません、わからないです」

 サラが驚いた声をあげ、モモの顔を覗き込んだ。

「モモ、今日、誕生日なんでしょう?」

「そう……ですけど?」

 ……あれ、どうしてサラさまが知っているんだろう。

 その疑問はすぐ解決した。契約時の書類だ。

 それにしても、自分の誕生日がどうしたというのだろう。モモは首を傾げる。さっぱりわからない。

 それというのも自分が祝われるという概念がないのだ。

 バートリーでは、モモを成長させた自分達を褒め称えはすれども、モモ自身を祝うことはなかった。いつもは素通りするだけの職員が労いの言葉を掛けてくれたりするが、それも翌日は通常運転に戻る。繰り返されればそれが当たり前だと思うから、寂しいとか、祝われたいとか、モモは一度だって思った事がない。

 サラがもどかしげに唇を噛んで、再びモモを抱きしめた。

「……モモ」

「はい?」

 モモ、モモ、とサラが繰り返す。耳がこそばゆい。

 やがて名前がやみ、サラが息を吐くのを聞いた。

「九才になったよ、おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう」

 

 ……おめでとう?

 ……うまれてきてくれて、ありがとう?

 

 定型文としては知っている。最大級の感謝と喜びを相手に伝えようとする表現の一つ。

 それをサラが口にした。

 誰に向かって?

 

「……ぼく?」

 モモは顔をあげて、サラを見た。

 そうよ、と言葉の代わりに彼女は頷いた。

「おかえり、モモ」

「……ただいま、サラさま」

 サラの目を見つめながら答える。胸の奥底から込み上げる衝動が、モモの声を震わせた。

 おかえり、と柔らかい指の腹がモモの目尻を拭った。

 

 

 

 


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