11


 

 雨粒が土を削り川をなし、川の水は流れて広がり海に出て、蒸発した海水が雲へと姿を変え、空を漂い、大地にまた雨粒を落とす。

 モモが窓から眺める雨粒が先日のそれかはしらないが、今だけは夢のある思考に浸ろうとモモは思う。

 

 ……ねえサラさま。

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「もしサラがサナギになったら、その間、モモはどうするの?」

 

 ふいの投げかけにモモはすぐ答えられなかった。

 口の中にものが入っていたせいでもある。

 ライアンはだいたい週に一回のペースでアーヴィング邸にやってくる。必ず手土産と称して菓子類を持参し、モモに味の感想を訊ねる。

 一般的にヒトの作る料理は大味で、また彼らはそれに不満もない。なぜなら繊細な味付けをしたところでそれが分からないだ。彼らがうるさいのは主食である人間の血液にかぎる。

 かねてよりライアンは菓子店を比較したかったが、自分の舌は当てにならない。

 そこに現れたのは味の分かるモモだ。

「……っ」

 急いで口の中のものを飲み込む。生クリームがたっぷり載ったシフォンケーキに突き立てたフォークを皿に戻した。

 サラはさっきグラハムに呼ばれて出ていった。庭に植える花の相談を夕べしていたからきっとそのことについてだろう。

 モモは改めてライアンに向き直る。彼は向かいのソファー、肘掛けに頬杖をついてこっちを見ている。

「ライアンは、もう来た……?」

「うん。半年くらい寝てた」

「半年……」

「僕はそれくらいで済んだけれど、稀に、十年、二十年ってヒトもいるらしいよ」

「じゅうねん……」

 数字の大きさは分かるけれど、モモにはまだそれを漠然としたものとしか想像できず、途方に暮れる。

 ヒトの大半を占める吸血種、その成長の仕方はそう人間と変わらない。ただ人生の中で一度だけ、死んだように眠り続ける時期がある。

 それが『サナギの期間』だ。眠っている間は無防備になるだけで、蝶のように目に見える身体的な変化はない。内面にもない。ただ昏々と眠り続けている。

 眠りは予兆なく突発的に訪れる。もし周囲に誰もいない状況でそうなったら悲惨だ。眠りに落ちた瞬間大地に投げ出され、負傷し、そのまま亡くなるという話はいつになってもなくならない。

「モモはさ、サラの目が覚めるまでずっとそばについててあげる?」

「サラさまが望むのなら」

 モモは即答した。

 ライアンはモモの回答をきいてちょっと眉を顰めた。けれど、すぐ笑顔に戻り、

「そうなるといいね」

 なんだかとってつけたような科白にも思えて、モモの胸がざわつく。

 ……なにかおかしいこと、言ったかな。

 モモはサラの愛玩物ペットだから、何か決めるのはサラだ。だから彼女の方針が知りたいのなら、彼女に訊けばいい。なのにライアンはモモに意見を問う。

 ……ぼく間違ってない、よね。

 疑問が萌芽する前に、無意識が潰す。

 だからモモは自分の回答に自信を持って、フォークを口に運んだ。

 

 

 

 

 サラが二十歳になった。

 誕生日には家族だけで食卓を囲み、特製のケーキを食べて、贈り物をする。アーヴィング家で行われる祝いの席は地味でささやかだ。

 今日の主役はサラ、祝うのは親であるグレン達とそしてモモ。

 時にはここにサラの祖父母が加わる時もあが、今日はいない。さすがサラの祖父母というか、父方母方どちらもがモモに友好的で、サラの誕生日なのにモモにまでプレゼントしてくれる。

 なんて恵まれた環境なのだろう、モモは己の幸運を噛みしめてやまない。

「モモ、どうしたの、お腹いっぱいになった?」

「あ、ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてました」

 笑いながら釈明すれば、なにやら笑いのツボに嵌まったらしくサラが口許を押さえて噴きだした。

「そんなに慌てなくても……なあに、疚しいことなの?」

「ちがいますっ」

 真っ赤になったモモの頬をサラが指で突っつく。

「ほんとうに違いますから」

「はいはい」

 適当にあしらわれ、モモは頬を膨らます。サラが楽しそうだから、それだけでモモは満足してしまう。

 サラは数年前から父親であるグレンの勧めで、彼が管轄するプラントの関連会社で姓を伏せて働いている。いつまでもモモとべったり過ごす訳にもいかないことを彼女はちゃんと理解していた。

 サラが不在の日中、モモは庭師に習って花の手入れをしたり、時にはベティの話し相手をして過ごしている。もちろんサラの隣にいて恥ずかしくないように身なりを整えたり、会話のタネを増やすといった自分磨きも疎かにはしない。

 ……そろそろかな。

 モモは冷蔵庫の中のケーキに意識を向けた。

 サラからの、今年のリクエストはチョコレートケーキだ。

 スポンジが思い通りの柔らかさにならなくてなかなか苦労したけれど、完成してみれば我ながら上出来かな……なんて思う辺り、まだまだ子供なモモだ。

 それでも十五歳である。

 気がつけば、ひょっとしたら一生無理なのかもしれないと真剣に悩んでいたサラの背丈も追い越していた。

 魔法を使って寝込むこともなくなった。だからちょっとしたことにも気軽に使えるようになった。

 ……来い。

 位置は、冷蔵庫の中から食卓の上へ。

 対象は、精魂込めて作ったケーキ。

 数字と記号の列がモモの脳内を高速で駆け抜ける。

 食卓に登場したケーキに誰より早く歓声をあげたのはベティだった。

「きゃあ、すごい」

 モモが魔法を使うとサラは嫌な顔をする。サラの中でモモが魔法を使うのが、悪いイメージと結びついているのが原因だ。だけどそろそろ慣れて欲しいと思う。もう以前とは違うのだから。心配しなくとも、もう迷惑はかけない。

 まるで少女のように黄色い声をあげる母親を見やるサラの顔は、心中複雑といった感じだ。

「モモ、今年もありがとう」

 サラが笑ってそう言ってくれる。どんな褒め言葉よりも一番、モモの心に響く。

 モモは王子様にはなれないけれど、お姫さまのためならなんだって出来ると思うし、してあげたいと思う。

 だけどサラとモモの関係は、サラが望んで、それで初めて成り立つ。

 彼女が望むのならこの血を差し出すこともモモは厭わない。そう告げたことがある、まだモモがサラより背が低かった頃の話だ。

 彼女は、モモの血はいらないと言った。

 ひょっとしてぼくの血はまずいのだろうか……見る間に表情を曇らせたモモに、サラが首を傾げた。

「落ち込むようなこと言ったかしら?」

 モモはゆるく頭を振った。サラは悪くない。ただ、役に立たない自分に悲しくなったのだ。

「……ぼくの血、まずいんですよね?」

 だから飲みたくないんですよねと言外に含ませ見上げたら、サラが深くため息をついた。

「ごめんなさい、言葉が足りなかったわね」

 そう言うとサラはモモを抱きしめて、うなじの辺りに指で触れた。首筋に吐息が掛かって、くすぐったい。思わず肩を竦めたら、サラが小さな笑い声をたてた。

「あのね、モモの血が美味しいとか不味いとか関係なくて……こうやってモモに、きちんと口にするのはこれが初めてね。わたしね、血を啜るという行為が好きじゃないの」

「……じゃあ、コップとかお皿に入ってたらいいんですか?」

 サラが「ううん」と頭を振る。

「そういうことじゃないの。……モモ、わかって」

 サラが正面から目を合わせて、言った。

 この時正直モモは理解できてはいなかった。けれど、そうすることが正しいと思ったから「わかりました」と請け負った。サラの言葉の中にある切実さを感じ取ったのもあるが、反射的行動といっていい。

 どうしてもあるじの望みに応えたい。

 それは素敵な心がけだがつまるところ、どうあってもモモはあるじの望みには逆らえないに他ならない。

 設計図の時点でそういうふうに刷り込まれているからしょうがないのだ。

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ……ねえ、サラさま。

 モモはベッドの傍らに座り込んで、昏々と眠るサラの顔を見つめる。

 明日はモモの誕生日ねと言って、だけど彼女は翌日目を覚まさなかった。

 サナギになったのだ。

 それきり、一年が経とうとしている

 本当に、聞いていたとおりだった。兆候はいっさい無かった。

 着替え、手足のマッサージ、食事代わりの注射。返事はなくとも話しかけてあげること。事態になれた医者の説明は分かりやすく簡素で、それでいいはずなのに、モモには何か物足りなく思えた。

 確かに突発的な出来事だったが、ヒトがサナギになるのは避けて通れない通過儀礼だ。特別なことではないから、騒ぐ必要がない。

 まして起こったのは彼女にとって安心できる邸の中だった。

 サラは独りじゃない。なのにモモは不安でたまらない。

 いつの日か、本当に目を覚ますんだろうか。

 呼吸に上下する胸を眺めて何度も安心を得ようとする。

「そうやって目が覚めるまでずっと見つめているつもり?」

 ある日ふらりと現れたライアンが言った。彼が前触れなく訪れることはそんなに珍しいことではないから、モモも驚かない。

「約束したから」

 サラの腕を摩る手を止めてモモは答えた。

『待っていて。目が覚めたとき、そこにいてね』

 いつだったかの夜、ベッドの中でもしもの話をサラとした。

 だからモモは願いを叶えてあげなくてはいけない。サラの目の届くところにいなくてはいけない。

「そう……約束、ね。サラが言ったからきみは待つのか。じゃあ、約束していなかったらモモはサラを待たないんだね」

「どうしてそうなるの?」

 モモは本気でライアンの言葉が分からなかった。

 純粋な疑問をぶつけたら、ライアンが目を細めた。

「それじゃあ仮にだけど、サラが待ってて欲しいと言わなかったら、モモはサラがサナギになった後どうしてた?」

「それは……」

 モモは答えあぐね、口を閉ざす。考えようとすると、靄が掛かったように思考が停滞する。

「僕は確か、前にもモモに訊いたよ、どうするのかって。あの時は明確に答えなかったけれど……本当は答えられないんだろう? モモの考えの基準はサラだから。自主的に行動しているように見えるときだっていつも本当はそうじゃない。……可哀想に、自分の考えなんてものは最初から持っていないんだよね」

 憐れむようなライアンの視線にさらされて、モモはたじろいだ。言葉を吐き出せずに無意味に喘ぐ。

 ……ぼくの考え?

 ……ライアンはなにを言っているの?

 ライアンの言葉が、モモが自分でも知らない、モモの中にある閉ざされた箱の蓋こじ開けようとする。

 だけど強制的な力がモモの意識をそこから逸らさせようと囁く。気にするな聞き流せ、それはおまえに必要な言葉じゃない、と。

「ねえモモ。きみのサラを好きって気持ちは本物なの?」

 なにを今更なことを問うんだと反射的に唇を開いて、でも何かが言葉を喉元でせき止めた。

「答えられないの?」

「ライアンは……ライアンの言うことは分からない」

「なら、考えて。よく考えるんだ。自分の心から目を逸らさないで、そしたら――」

「……そしたら?」

 ライアンは頭を振った。

「……答えを導き出すのはモモだよ」

 モモのためにも早く起きてとサラに投げかけて、ライアンは帰っていた。

 

 その翌日、モモはアシュリー・ヘイズに呼び出された。

「ご主人様の傍は離れがたいだろうけど『最果て』へ行ってくれるかな」

 そこはどこより『人間』に近い、ヒトが暮らすくにだ。

 お願いでなく、それは命令だった。

 それもアシュリー・ヘイズ個人からでなく、この州を統べる長としての。

 命令されたらモモは逆らえない。

 モモのあるじはサラだけれど、そのサラは眠っているし、そもそもモモはヒトに従うように出来ている。

「どうしてぼくなんですか」

 重役でもなんでもない、ヒトに造られた愛玩物にすぎない自分になぜ、そんな命令を下すのか。

「理由が知りたいかい?」

 モモは頷いた。

 答えはモモが望むものではなかった。

「行けばきっと分かるよ」

 

 

 ……ほんとうに?

 モモは回想を断ち切った。

 最後に見たアシュリー・ヘイズの顔は笑っていた。でも意地悪するときのではなかった。だからやはり、何故自分が命じられたのか分からない。

 モモはサラの寝顔を見つめる。

 もしかしたらその瞼が開くとき、自分はここにいないかもしれない。

 ……そしたらサラさま、やっぱり怒るよね。

「行きたくないなあ……」

 ぽつりと吐いた弱音は静寂に吸い取られる。

 力なく開いたサラの手に自分の手指を絡めて、額に押し当てる。

「……行ってきます」

 背中を押してくれる優しい声は聞こえない。

 泣き出したいのを堪え、モモはサラの部屋を後にした。

 

 モモは十七歳になった。

 

 

 


戻る

次へ