16


 

 枕元を探り、モモは端末を手繰り寄せた。

 時刻を確認し、身体を起こしながら隣のベッドへ視線を向けると、目が合った。

「……おはようございます」

 吃驚した。でもそれをおくびにも出さず、トットに起床の挨拶する。いつ戻ってきて、いつ寝たのだろう。気配を隠されてはモモには分かりようがない。しかし問題はそこでなく、彼が起きてこっちを見ていたことだった。

 曲げた腕を杖にしてこっちを見ているトットが欠伸混じりに「おはよう」と寄越す。

 モモはベッドから降りた。

「なにか飲みますか?」

「水がいい」

 頷いて、キッチンへ向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、グラスを二人分用意して注ぐ。

 トットの分を持って戻ると、まだ横になっていた彼が身体を起こした。

「どうぞ」

「ありがと」

 手渡してそのまま寝室から出て行こうとしたモモをトットが呼び止めた。

「モモ、」

「はい?」

「今日はいっしょに、女王のとこへ遊びに行こう」

 ちょっとそこまで買い物に出るみたいな言い方だ。

 グラスを持っていなくてよかったとモモは心から思った。吃驚して落っことしていたかもしれない。

「女王のところ、ですか?」

「そう。ちゃんと約束はとりつけてあるから、押しかけとかじゃないぜ」

 どや顔で言う。

「いきなりすぎて頭が追いつかないんですが……ぼくが同行して問題ないんですか?」

「あったら連れて行かないさ。そもそもこうやって提案してる時点で察して」

 確かにそうだ。

 それに、こんなことでいちいち嘘を言うようなトットだったら、モモはここに来るまでもっと苦労していた。

 ……でも遊びに行こうって?

 そんな気軽な間柄なのか、訪問の間違いではないのか。

 しかも約束ときているから、提案ではない。これは決定事項だ。モモに最初から拒否権はない。

「畏まった格好じゃなくていいから。気負わず、な? 出発は十時。昼は向こうが用意してくれるらしい」

「わかりました」

 今度こそモモは部屋を出る。キッチンへ戻って、入れた時のままのグラスに口をつけた。一気に飲み干せば、グラスの汗がモモの手首を伝っていく。

 しばし虚空を見つめた。

 折角『最果て』まで来たのにただ無為に過ごすだけかと思っていたが、そうはならなかった。

 どういう風の吹き回しだろう。トットは基本、単独行動だ。暇を持て余すモモを見かねたのか、それとも違う目的があるのか。

 ともかくこれからを思うと、緊張する。

 顔を洗い、基本的な身だしなみを整えながら服を考える。たくさん持って来ているわけでないし、手持ちを組み合わせるだけだからそう頭を使うことはない。もしトットにそれでは駄目だと言われたら、魔法でアーヴィングの邸から取り寄せよう。

 身体が成長したからか、以前より魔法の精度があがっている。すぐ熱がでたり、鼻血が垂れることもなくなった。だからといって安易に乱発しようものならどうなるか分からないから、やはり使用はここぞと言うときに限っている。

 服を取り寄せるにせよ、はたして遠いアーヴィング邸からここまで、魔法が通用するのかは不明だ。一体どの距離まで通用するのか、実証記録がないのだ。バートリーでやった実験は、範囲を施設内に限っていた。そもそも魔法の使用一回につき、未熟すぎる身体は耐えられずすぐ発熱して、使い物にならなかった。

 モモは蘇りそうになる記憶に蓋をする。

 ……こっちかな。

 迷ったが、シャツはサックス色にした。

 手土産を用意するべきかトットに相談すると「いらないよ」と笑って軽く一蹴された。

「今日は俺が運転ね」

 トットが車の鍵を握り、言った。

 モモは首肯しながらも内心、トットが運転するのかと思い案じた。助手席に座り、倒れっぱなしの背もたれを起こす。

「はい、じゃ行くよ」

 引率教師のようなことを言って、トットが車を発進させる。ここまでは別にモモも文句はない。

 問題はこれからだ。

 トットの運転にはムラがある。彼は速度標識を守らない。というか一定速度が保てないのだ。目に見えて表情が変化しないから察するのが難しいのだが、穏やかな顔の裏で気分が乱高下しているらしく、それにあわせてペダルに強弱をつけるのだ。

 州の外を走っているときなら、後続車がないからまだいい。

 しかしトットはこれを整地された街中でも平気でやる。

 さっき飛ばしていたかと思ったら、徐々に減速。後続をのろのろ引っ張ったかと思ったら、いきなりスピードをあげる。

 実に迷惑きわまりない。

 だからモモは自分から運転を買って出ていた。後ろでクラクションを鳴らされるのに精神が耐えきれなかった。

 そんなに運転好きという訳でもないようで、モモが運転したいと言っても彼は嫌な顔をせず、よろしく頼むとまで言ってくれた。

 だけど今日は先にトットが鍵を握ってしまった。こんなのは珍しい。

 ……なにかいいことあったのかな。

 ちらと隣を窺うと、目が合った。

「なに、俺の顔、なにかついてる?」

「……うきうきしてます?」

「わかる?」

「はい」

 当てずっぽうだった。

「女王にはつがいがいるんだよ」

 トットは急にそんなことを言い出した。

「つがい?」

「旦那のこと。ヒト同士だけど、種が違うんだ」

 ほとんどが吸血種だから、ヒトとはそれだと思うくせがモモだけでなく、ヒト全体にも風潮としてある。実際、発言権の大きさも人口に比例してそちらにある。

「女王のつがいは竜なんだよ」

 モモは瞠目した。でもそれはつがいが稀少な竜だとわかったからではなかった。だけどモモはそういうことにしようとした。すっとぼけることにした。

「……いるんですか」

「いるんだよ、……というかおまえ、もう気付いてるだろ」

 意味ありげな視線を向けられ、モモは降参した。

「……バイロン家はそうなんですか?」

「そ、正解」

 モモの好奇心が疼いた。

「いろいろ訊いてもいいですか?」

「いいよ。答えられるやつしか答えないけど」

「ええと……主食は?」

「霞。あ、詳しい説明はしないからな。はい次、」

「絵本にあるみたいな、あの姿は本当なんですか」

 竜はヒトでも稀少種だ。だから実態は不明なところが多い。

「まあ間違ってはない。だけど俺たちの根源にあるのは人間で、生まれてくるときもヒトの姿をしている。変化の仕方は本能で知っているけど、まずやらない。いろんな根幹がひっくり返るからな。そういうのもあって、竜種は自分からは正体を明かさない。ほかには?」

「……思いついたらまた訊いても?」

「いいよ」

「ありがとうございます」

「俺に礼か……。簡単にひねり潰せるから明かしただけかも知れないぞ?」

 トットが嘯く。

「どっちだとしても、ぼくは秘密は守ります」

「そこは俺も信用してる」

 トットがペダルを踏み込んだ。じわじわ車が加速する。ということは今の会話でなにやら気分が跳ね上がったらしい。

「ちなみにトットさんは、本当は何歳なんですか」

「秘密。竜種は歳の数え方が違うんだ、とだけ言っておく。あ、それと、俺は竜の中じゃ若い方だから」

 モモは頭の中のメモ帳に今聞いたことを書き付けて鍵をかけた。

 鍵を掛けた箇所は原則、検診の時に深く触らずそっとしておいてくれる約束になっている。昔は頭の中を全部覗かれていたけれど、アーヴィング家に所有権が移ってから情報守秘の観点で『秘密』を作れるようになった。

 秘密はモモの宝物でもある。

 

 目的の場所へは一時間足らずで到着した。

 本来もう少しかかるのだろうが、もともと道路が空いているのと上機嫌らしいトットが飛ばしたおかげで、ずっと早く着いた。

 そこだけ他の建物と違い、色がついていた。

 高さや大きさは周囲と馴染むように揃えられているが、一目で他と違うと分かるのは、木目がみえているからだ。森にあるログハウスを中心市街地の、ど真ん中に放り込んだという異色な感じである。

 玄関と接する前庭には芝が植えられ、花壇には種々の花が咲きほこっている。それもまた、この州の雰囲気を思えば異様であった。敷地の境目に白塗りの柵が立てられている。

 モモはいつか読んだ絵本を思いだして、おとぎ話の舞台に使われるのはこんな家だろうかと考えた。

 トットは隣の、車庫と思しき建物の前で車を止めた。

「はい、降りて」

 促されるまま、車を降りる。

 エンジン音か、ドアの開閉音を聞きつけたのだろう。邸の玄関が開いて、中から青年が一人出てきた。こっちを見て、大きく手を振る。

 ……あれが竜の?

 知らず観察の目になりかけたモモの隣でぼそっとトットが言う。

「恥ずかしい奴」

 歩き出したトットにくっついて、門の方へ向かう。

 青年が閂をわざわざ手で外した。

 造りを見たときからそうではないかとモモは踏んでいたが、要人の自宅なのに古風な、ひとたび本気で蹴れば簡単に壊れてしまうだろう木造の門だ。

 間近で青年をそれとなく検分する。髪は赤毛の混じった茶色で、右目の上に目立つほくろがある。身長はトットと同じくらいか。だからモモはまた、彼も見上げなくてはならない。モモもそれなりに成長したのだが、そこまで高身長にはならなかった。あくまで人間の中では普通。でもまだこれから伸びるかも知れないと、希望は捨てていない。

「トット、久しぶり。そっちの子は初めまして」

「おう」

「はじめまして、モモです」

「うん、聞いている。詳しい自己紹介は中でしよう。さ、入って。彼女が待っている」

 このヒトが例のかと目で問うと、トットがそうだと頷いた。

 邸の中に入ってすぐ目についたのは、壁に飾られたタペストリーだった。どこかの街の風景を編んだもので、モモはすぐベティを思いだした。今も、作っているだろうか。

 通された部屋に入ると、一人の女性がソファーに座って待っていた。

 皺の刻まれた顔は苦労の証だろう。けれど穏やかな笑みを浮かべる彼女は、モモが想像していた苛烈な女王の姿とはかけ離れていた。

 決して美人ではないし、小柄で、一言で言うと『おばあちゃん』だった。

 モモは女王、メアリー・ブレイザーを、野原に控えめに咲く小さな花のようだと思った。

「ごめんなさいね、本当は立ってお出迎えしたかたったのだけど、腰を痛めてしまって」

 メアリーはすまなさそうに言った。どうにかして守ってあげたい思わせる可愛らしい声をしていた。

 思い描いた像ががらがらと音を立てて崩れていく。

「痛みますか?」

「今は薬が効いているから平気よ。ありがとうね」

 どうぞ座って、とメアリーが促す。

 いつの間にか青年の姿がないと思ったら、奥の部屋から茶器の乗ったワゴンを押して出てきた。

 モモは居ずまいを正し、隣に座るトットを視線を投げた。

「ん? ああ、そういや自己紹介後回しにしたんだっけ。じゃあ改めて、彼女がメアリーだ。そしてこいつが旦那のレム。……で、俺の隣のがモモだ」

「モモです、今日はありがとうございます」

 やっと礼が言えて、モモは胸のつかえが取れた。

「トットから聞いているわ、遠路遙々ようこそ。何もないところだけれどゆっくりしていってね」

「はい」

 トットが自分のことを何と紹介したのか気になるところである。

「ハーブティーは飲める?」

「はい、ありがとうございます」

 レムは慣れた手つきでカップに茶を注ぎ、それぞれに配った。爽やかな匂いが鼻孔をくすぐる。

「娘がいたら話し相手になれたでしょうに、ごめんなさいね。今ちょっと反抗期みたいで家にいないのよ」

「いえ、お構いなく」

 どこかで聞いた話だと思いながら、モモは曖昧に微笑んだ。

 ふうふう湯気に息を吹きかけるトットが思いだしたように、あ、と一声をあげる。隣に座っているから、モモは思わずびくっとしてしまった。

「そうそう、お前の正体ことは二人には言ってあるから」

「言いふらしたりしないよ」

 レムがお茶目に左目を閉じてウインクする。

「こんなに可愛らしい子を見られてとても嬉しいわ。ありがとうね、トット」

「なに、利害の一致だよ」

「そんなつまらないこと言わないで」

 叱られても、トットは笑うだけだった。

「モモさんはおいくつかしら」

「十七です」

「そしたらもう、息子というより孫かしらね」

 メアリーは背後に立つレムを見あげる。彼は一人掛けに座るメアリーの斜め後ろに立って控えているのだが、その瞳はずっと慈愛に満ちている。夫婦《つがい》というが、並ぶと親子にしか見えない。

「いやだな、それじゃキャンディはどうなるのさ」

「ふふふ、そうね」

 若い恋人同士みたいに見つめ合って会話している姿は、傍で見ているものからするとちょっと気恥ずかしくもある。

 モモはただ、羨ましいと思った。

 だがそれも一瞬だ。さらっとレムの口から出てきた名前の方に思考が囚われる。

「あの、キャンディってお子さんの名前ですか?」

「そうよ。あら、もしかしてどこかで会った?」

 モモが頷くと、メアリーが「まあ」と手を合わせた。

「縁があるのかしらね。あの子、元気にしていた?」

「はい。……帰ってきていないんですか?」

 レムが肩を竦める。

「戻ってきてはいるんだけど、ぼくらに会うのが気まずいのかこそこそしてるから、今はそっとしておいてあげてるんだ」

 おそらくそれがまたキャンディは気にくわないのだろうが、家族でもないモモが口を挟むわけにもいかない。端からそんな差し出がましいことをするつもりもなかった。

 中身が冷め切ってしまうまえに、モモはカップに手を伸ばした。

 

 

 

 モモがキャンディに合ったのは偶然だった。

 街中、曲がり角でぶつかるという、あり得ないと思われる方法で再会した。

「あ、キャンディ」

「モモ。まだこの州にいたのね」

「うん」

 宿の冷蔵庫の中身が乏しくなって出かけたモモの両手は、買い物袋を抱えることで塞がっていた。

「何買ったの?」

「パンとリンゴ。それからバターと砂糖……あとベーコンの切り落としとタマゴ三個」

 宿周辺は、食べ物屋はあるのに食材を売る店は少ない。需要が少ない、つまり嗜むヒトが少ないと言うことだ。

 ハムの切り落としはタマゴの黄身ほどの分量が真空詰めで陳列されていた。モモが見つけたとき、最後のひとつだった。ひょっとするといつもそれしかないのかもしれない。

「なに作るの? というか、モモ、料理できるの?」

「難しいのは作れないけど……リンゴはジャムか甘煮にして、パンはラスクにしようかと思っているんだ」

 モモは紙袋を一度抱え直した。

「ふーん、いいとこのお坊ちゃんみたいな見た目のくせに、なかなかやるのね」

「ありがとう」

「誉めてないわよ。……貶してもないけど」

 キャンディはふんと鼻を鳴らし、でも離れていく気配はない。行く方向が一緒かと思ってモモは放っておいたが、ふと先日のメアリーたちとのやりとりを思いだした。

「……まだ反抗期?」

 キャンディが目を眇めた。

 空気がぴりついたのをモモは感じ取った。触れていいタイミングではなかったようだ。

 モモは迷った。たぶん続ける言葉によって、関係は悪化する。

 ヒトの不快を引き出すことはモモにとって苦痛だ。したくない。だがモモにとって、キャンディの優先順位はサラを上回らない。

 ヒトという括りでは同列だけれど、至上ではない。そこにはいろんな矛盾が含まれている。矛盾があるのは、モモが作りものではあるけれど、機械ではない証である。

「この前、キャンディのお母さんに会ったよ」

 キャンディが完全に足を止めた。

「おか……メアリー・ブレイザーに会ったっていうの?」

 疑わしげな瞳がモモに突き刺さる。

「うん、成り行きで連れて行って貰ったんだ。まさかきみのお母さんだとは思わなかったけど……優しいヒトだね」

「……」

「でも、反抗期だからしょうがないって見守っているだけなのはどうなんだろう?」

「うちのことに口挟まないで!」

 言うなり、キャンディがはっとする。気まずそうに、視線を逸らした。

 モモは口の中から胃に向けて苦い汁を流し込まれたような嫌な気分にぐっと耐えた。

「その勢いを、お母さんにぶつけた方がいいと思うよ」

 人間の分際でこんな提案なんか、許されるわけがない。こんなふうに自分から敢えてしたのはきっと、初めてだ。愚かなことをしていると思う。

 モモは彼女に背を向けた。早く宿に戻りたかった。

 ……こんなのぼくじゃない。

 後ろは一度も振り向かなかった。宿に戻って部屋のドアを閉めてやっと、ほっとできた。

 背を向けたとき、彼女が「あ……」と何か声にもならぬ声を上げた気もしたが、気のせいだ。

 もう会うことはないだろう。

 だってきっと彼女は怒った。

 ヒトを不快にさせるなどあってはならないのに、禁をおかした自分は、本当なら罰せられなくてはならない。

 でも今それは困る。それでサラの元に帰れなくなるようなことがあっては困るのだ。

 弾む息を整えながら、モモは荷物を置きにキッチンへ向かった。

 

 

 

 


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