戻ってみると、あの時穴が開いた建物はひしゃげて、周囲も同様な被害を受けていた。
地面に立っているのは少年しか見つけられなかった。
ヒトは彼を放置して一時退却したのか、とにかくそこには彼しかいなかった。
戻ってきたモモを見て、少年がぱっと顔に喜色を浮かべる。まるでモモが戻ってくると思って待っていたように。
彼が自分に何を思ったのかは分からない。だが、まだいてくれたことはモモにとって都合が良かった。
耳障りなサイレンに負けぬようモモは大声を上げた。
「きみと話がしたい!」
聞こえなかったのか、少年が怪訝そうに首を傾げた。
モモはもう一度叫んだ。
「話がしたいんだ!」
しばらくの間の後、「いいよ」と返事が来た。
そんな力んだ風でもないのに騒音のなか、少年の声はよく通った。野良猫を呼ぶみたいにモモを手招きをする。その手には何の武器も握られていない。それともただ見えないだけなのか。
鼓動がたかまる。今にも張り裂けそうな胸を沈めようと、モモはそっと息を吸った。
きちんと戦闘訓練を受けていない、ましてや人間が攻撃を捌けるとは思わない。過信はしていない。一歩前に踏み出すことは死地へ赴くのと同じ事だ。終わりの確率を上げている。
もしかしていつでも瞬殺できるから、遊び心で招いてくれたんだろうか。
緊張から、喉が干上がりそうだ。無意識に唾を飲む。
瓦礫を踏み越え、距離を縮め、あと五メートルほどとなったところで少年が語りかけてきた。反射的にモモは足を止めた。
「ねえ、ヒトじゃないでしょ?」
値踏みするような視線にさらされながら、モモは「どうして?」と訊き返す。
「歩くのが慎重すぎる。演技にしてもひどいし。亜人だったらそんな面倒臭いことせずに襲いかかってくるはずだよ。だからさ、おまえは違う。そう、あれだよね。人間モドキってやつ、そうでしょ?」
モモは少し躊躇って、それから小さく頷いた。
少年がいやらしく口端をつりあげた。
「うわあ……教科書じゃない、本物だ」
興奮したように鼻息荒くモモの方へ駆けてくる。その勢いに無意識に気圧されたモモは半歩、にじるように後退った。
正面に立った彼はモモとほとんど背丈が変わらなかった。
「へえ……外から見ただけじゃ、僕らともあいつらとも変わらないね……でも中身もいっしょかな」
しげしげとモモの顔を見つめたあと、ぼそりと付け足した。
その一言にぞっと鳥肌が立った。少年の表情を確かめずにはいられなかった。
まだ笑っている。だがそれは、無邪気な子どもの顔だった。
「ああ、ごめん、忘れるところだった。ぼくと話したいんだよね? なにを知りたいの?」
「……きみが使っているのは魔法ですか?」
「……魔法?」
少年は真顔になって目を瞬いたのち、ぷっと噴きだした。
「そんな可愛らしいもんか。これはね、超能力っていうんだよ。見てて……」
少年はモモの足下、右の小指から三十センチほど離れたところを指差した。指された先がすり鉢状にへこんでいく。
「動く的に当てると動けなくなるんだ、でもやり過ぎると動かなくなるからつまらないんだよね」
心からそう思っているらしく、少年がモモを見た。
蛇に睨まれたカエルの気持ちがモモに分かった。
「的がなくなっちゃったから戻ろうかなって思ってたんだけどさあ、おまえが戻ってきたからよかった」
右肩を掴まれる。
獲物を見つけた猟犬の目に映る自分を見て、モモは真に理解した。
決して自分は人間に好かれることはないのだということを。
掛けられる言葉に甘さなどこれっぽっちも含まれていないということを。
彼らにとってはモモもまた、ヒトの側に属す、倒すべき側のものでしかないのだ。
頭では分かっていた、はずだった。
でも本当は、知っている気になっていただけだった。
「ぃやだ」
真に理解して、声が震えた。
痛みを覚えたのと、地面がえぐれたのはどっちが先だったか。
抉れたのは、ちょうどモモの右肩があった辺りの真下だ。
「……っぅ、」
声にならぬ声を上げてモモは右肩を押さえ蹲る。右手が痺れたように力が入らず、動かない。
「なにいまの……ねえ、おまえも使えるの?」
少年の陶然と吐き出した声を聞く余裕がモモにはなかった。
魔法を使うのが少しでも遅かったら、モモの身体はどうなっていただろう。間違いなく肩どころか腕も失せていた。
少年から離れたものの、その距離はわずか二メートル程度。
それくらい、標的を指して念じればいいだけの少年にとって、大した距離でない。
「すぐに殺らなくてよかった」
少年の感じ入った声に、ぞくりと鳥肌がたった。
モモがさらに後方へ転移した直後、その場所が鉄塊を喰らわしたようにへこんだ。逃げることで頭がいっぱいのモモは、彼が舌なめずりするところを見逃した。
右肩から先の感覚はまだ戻らない。
額に脂汗をかいて、モモは半泣きだった。
……死にたくない。
こんなところで一体、自分は何をやっているんだろう。
自業自得だとか、そんなことは自分がよく分かっている。それでもなお、どうしてと思う。
サラの傍にいたかっただけなのに、どうして、と。
逢いたい。
サラに逢いたい
でも死んだら逢えない。
逢いたい。
帰りたい。
「……サラさま」
モモをモモたらしめる魔法の名前。
少しだけ冷えたモモの頭が演算を始める。
逃げたら彼は追ってくるかもしれない、来ないかも知れない。彼がモモを潰す方が早いかも知れない。
……それは嫌だ。
死んでたまるかと、演算を速める。
少年がにたりと笑う。その指が持ち上がる。
「……ぼくはサラさまのところに帰るんだ」
その言葉はきっと少年には届かなかった。届いていたとしても意味不明で処理されたはずだ。
耳障りなサイレンが鳴るなか、地面に立っているものは誰もいなかった。
モモは右腕を庇うように抱いたまま、目を閉じ、魔法を発動した。柔らかい感触に目をあける。
見慣れた宿の、ベッドの上にモモはいた。
一瞬で気が抜けた。頭がくらりとした。
「――おかえり」
飛んできた声の方に頭を廻らす。幻聴かと思いきや、トットが存外すぐそばにいて驚いた。彼はまるでモモがそこに来るのを分かっていたようにベッドのそばに佇んで、モモを見下ろしている。
「そのうち医者が来るから、それまでは耐えて」
「みて、いたんですか……?」
トットは言葉にせず、曖昧に頷いた。認めたようなものだった。
どこからとか、どうやってとか、気になることはあったがその前に、部屋に取り付けられている端末が医者の来訪を告げた。
「答え合わせは医者が帰ってからにしよう」
モモは怒り方がわからない。
自分の行いに苛立つことはあっても、他者相手にその感情が湧くことはない。仮に嫌がらせされたとしても、ただ困惑するだけで終わってしまう。
そんなふうに造られたモモが周囲に怒りを覚えることは難しい。
トットとの答え合わせは、モモでなければひどい喧嘩になっていてもおかしくないことであった。
モモは自らの意思で危険な場所に赴いたと思っていたが、そうではなかった。
トットの力による誘導であった。
もちろんモモにも少なからず人間と接触したい欲求があったわけだが、それを後押しして逃げ道を潰したのはトットの力であった。
彼はモモのあずかり知らないところで、モモが魔法を使えるらしいと聞き知っていたらしい。
魔法とはどんなものなのか。
魔法みたいな人間の力はどのようなものなのか。
両者がぶつかったらどうなるのか。
そういったことを知りたいがために、サイレンが鳴っても、モモが襲撃現場に近づくように意識を操作したらしい。
それがどういった手段だったかは、トットは教えてくれなかった。竜種は稀少種である理由の一つに、力を複数備えていることが挙げられる。広く知られた力は火炎や氷結の吐息だ。
「怖かったよう死にたくなかったようって、泣いて詰ってくれていいんだぜ?」
トットの泣き真似に、モモは眉を顰めた。
……まさかぼくのつもりじゃないよね。
もしそうなら、やめてほしい。ぼくはそんな可愛くない泣き方しないし。モモは小さくため息をつく。
「生きてるから……もういいです」
「……それで本当にいいんだ?」
「いいんです。生きて、戻れるなら」
サラのそばにいられるなら、それでいい。
「ぼくは早く帰りたい」
サラの元へ、帰りたい。その意思を込めて、はっきりと告げると、トットが少し驚いた顔をする。
「そんなにはっきり言ったの、初めてだな」
「そう……ですか?」
「ここにいつまでいるのか訊いてきたときに、おおお? ってなったけど。日頃からそういうの言わないから、そこまで焦ってないのかと思ってた。俺が意地悪言ってもちょっと困った顔するだけで、流しちまうし。俺が置いていっても文句も言わないで宿で待ってるし。仕組んだのライアンって聞いても、やっぱりそうかあって顔してるだけだし。……だから、ご主人様のところに帰りたくないのかなあって思ってたときもあったよ」
モモの右肩は、麻酔が打たれていて感覚がない。一緒に注入された医療用のナノマシンが忙しなく神経組織の修復を行っている最中だ。
「モモの魔法はどこまでが範囲かな、ここから家まで帰れる?」
「州を跨いだことはないので、なんとも。命の保証はできませんけど、トットさんだけ、先に帰りますか?」
「遠慮しとく」
トットが肩を竦める。
「ああそうだ、公式記録にはモモはあの場にいないことになってるから。敵勢力の排除は謎の力が働いたってことで、目下のところ調査中ってことになってる、表向きには」
だから周囲にバレたとかそういう心配しなくていいと、トットは言う。
「……わかりました」
「ん。帰りは行きよりも最短ルートでいくから……今日はもう寝ろ」
トットが立ち上がって、ベッドから離れる。
モモは怪我のせいで少しだけ熱が出ていた。一度寝室を出て行ったトットが、解熱剤と水の入ったコップをサイドテーブルに置いて、辛かったら飲むよう指示してまた出ていった。
はあ、とため息をつく。その息までもが熱い。
熱のせいか知らないが、今度ライアンに会ったなら顔を、思いきり殴ってやりたいと思った。どうかしている。今だけだ。今、思うだけ。きっと実際にはできやしない。
自分の考えがない、とライアンはモモに言った。
……うるさい余計なお世話だ。
……ライアンがどう思おうとぼくの、サラさまの傍にいたい気持ちに嘘も本当もあるもんか。
……サラさまの願いを叶えたいと思うぼくの気持ちを否定するな。
……おまえがするな。
……否定していいのはサラ様だけだ。
……おまえのじゃない。
……ぼくのサラさまだ。
「ぼくの……おひめさま」
仮に熱のせいだとしても以前のモモならばきっと、こうまではっきりとしたことは、心の声でも言うことはできなかった。
これはサラと距離を置いたからこそ、生まれた想いであった。
帰りはなんと、転移装置を使うことになった。
しかもトットはバイロン家の力を使ったらしく、本来直通にはならないところ、ルートをねじ曲げた。
だから『最果て』から『霧の州』が一瞬だ。
トットは茶目っ気たっぷりに秘密だぞと目配せしてきた。
……そういうのはぼくじゃなくて女の子にしてください。
無事帰還したことで、アシュリー・ヘイズがわざわざモモに命じた理由も判明した。
それはトットと同じものだった。モモは教えたつもりはなかったが、トットにモモの魔法のことを教えたのはアシュリーだったらしい。
アシュリーはモモの魔法にそれほど興味はなかったが、流れてきた『最果て』の情報から、ぶつけてみたらどうなるか興味を持ったのだそうだ。そこにきて息子からの相談もあった。
『モモに己の考えをもって欲しいんだけど、どうしたらいいだろう?』
ライアンは別に『最果て』なんて遠いところへ行かせるつもりではなかったらしい。ただモモを一度サラから遠ざけ、自己を見つめさせたかったらしい。
それが分かったのはモモにとっては大きな収穫だった。ライアンは別に意地悪したくて、そうしたわけでなかった。ただモモとサラの今後を思った上での提案だった。
分かった瞬間ほっとして、存外自分は根に持っていたのだとモモは気付かされた。
……怒って……いたのかぼくは。
ライアンにも早く会いたいと思った。
アーヴィング邸に戻って一日、また一日が過ぎる。
サラはまだ眠っている。
モモが生きている間に目が覚めるだろうかと不安になるときもあるけれど、前ほどは心揺らぐことはない。ちゃんと待っていられる。
きっとサラの目は覚める。
そしたら言うのだ。
「おはよう、サラさま」
ぼくのやさしいおひめさま、よくねむれましたか?
※モモ視点は一旦ここまでで、次話から視点が変わります。