[Side:C]
ゴミ箱の中で包み紙を握っていたから――。
それがキャンディの名前の由来だ。
街の区画毎に設置されたゴミの集積箱。二日に一度、決まって午前五時に家庭ゴミを出しに行く老婆が彼女の発見者だ。
いくら『最果て』が世捨て人や流離い人の溜まり場とはいえ、さすがにゴミ箱に入った赤ん坊と遭遇したのは老婆も初めての経験で、驚いた。
信じがたい事に赤ん坊は自分がどこにいるのかも知らず、すやすや寝息を立てている。
老婆はとりあえず赤ん坊をうちへ連れ帰ることにした。その道すがらつらつら今後を考えた末、まっすぐ自宅にはよらず、役所へ向かった。
どう考えても乳も出ない、老い先短い自分が子育てなど無理だ。
この『最果て』に子どもの数は少ない。
あてどないヒトが最終的に辿り着く人生の墓場、そんな場所に前途ある子どもを送り込む方が稀だからだ。もちろん、住人同士が家族となって、そこから新しい命が生まれることは珍しくはない。だが、そうした命のいくらかは『最果て』から出て他所で暮らすことを望み、二度と戻ってはこない。
生産性に乏しい州には未来がない。いや、住人の目が未来を見ていないのだ。
だから女王に命を委ねることへの迷いがない。
彼らが命を捧げるのは自己犠牲などという尊い理由からではない。
どうせ死ぬならヒトの盾にでもなっておこうか。そんな、やすい自己満足と自己愛。
キャンディにはそんな大人達の考えが理解できない。
……どうせならってなに? みんなして気持ち悪い。
百歩譲って盾になるのはいい。けれど、そこに死にたくないという抵抗や躊躇いが生まれないのだろう。
しかも、そんな彼らの命を握っている女王、メアリー・ブレイザーは、キャンディにとっては母親でもある。
老婆によって役所に届けられたキャンディは、それから色々な手続きやらを経た結果、女王の養子になった。
女王がキャンディを引き取ろうとした経緯は、彼女曰く「運命だと思ったからよ」だそうだ。キャンディにはそうとしか語らないがきっと、番いがいるのに子どもがないというのも理由の一つだろう。
キャンディが物心ついたころ、すでに女王はそれなりに高齢だった。一方、番いの容姿は何年経っても衰えず若々しい。そのせいでキャンディは彼をあまり父親とは思えないでいる。
女王は、その力のせいで何も知らないヒトたちからは勝手に恐れられているが、キャンディの知る限り普段の彼女は物腰の柔らかいヒトだ。しつけるためと言って幼いキャンディに手を挙げ、叱り飛ばしたことは一度もない。叱るときはいつだって目を合わせ、キャンディに分かる言葉で諭し聞かせた。
だからキャンディは母親を恐ろしいと思った事はない。
彼女の言うことやすることはいつだって正しい、間違いなどない。
そう思うのに、いつからだろう、素直に聞けなくなってきたのは。
目を閉じる。
額の辺りに意識を集中させて、そっと目を開ける。
いつもは感覚に頼るところを今日は初心に返るつもりで意識してやってみる。
ふわりと爪先が、踵が地面から浮かび上がった。何も宙を蹴って、空へ舞い上がる。この時の、身体にかかるなんとも言えない感覚が好きだ。
レムが言うにはキャンディの力は、正確には重力を操るモノらしいが、キャンディはあくまで風を操っているのだと言い張っている。だってその方が素敵だと思うのだ。
それにキャンディができるのは空に浮くことだけ。
女王のような攻撃的な力はない。
キャンディは女王の後継ではなかった。
なぜならキャンディは女王と同じ力を持たない。
いつか現れる女王と同じ力を持ったヒトが、次のこの州のあるじとなる。これは『最果て』だけに限ったことではない。
仮に子どもや親兄弟が同じ力を持っていれば世襲と言うことになるが、どういうわけか、そういったケースはごく稀だ。
そもそも多くのヒト――主に吸血種の多くは、力を持たない。そして力は遺伝しない。
ともかくキャンディには槍衾の力はなかった。
つまりそれは女王のように誰かの命を預からなくてもいい。重荷を背負わなくていいということだ。
だけどそれを素直に喜べない自分がいる。
女王になりたかったわけじゃない。
なれると思っていたわけでもないけれど、やっぱり自分はただのヒトなんだと分かって、つまらないような、苛々するような、そんな胸のもやもやを振り払いたくて空を蹴る。
街並みを見下ろすのも飽きて、目を閉じる。
変わりばえしない景色。
ほかの州はどんなところなんだろう。こんな灰色の景観がずっと続かないなら、それだけで素敵に思えた。
いっそここを出てみるのはどうだろう。
そう考えたこともある。だけど決まってメアリーとレムの顔がちらついて、頓挫する。
二人の優しさは足枷だ。重ねてきた時間をキャンディは振り払える気がしなかった。
ためしに、数少ない友人にそれとなく外へ行ってみたいと言えば、行けばいいじゃないと軽くあしらわれた。
嫌になったら戻ってきたらいいんだよ、という。
そうかもしれない。
だけど戻ってくるのはなんだか格好悪い気がするのだ。そう言えば、考えすぎだよと笑われた。
そうだろうか……。どうも納得いかなくて、それから友人の前で外のことを口にするのはやめた。
胸のもやもやは完全に消えることはなくて、些細なことで増減する。
「……やばっ」
考え事に捕らわれすぎて、身体のバランスが崩れた。
……落ちる!
最近したことない失敗だ。
体勢を立て直すべく風を掴もうとするけど、焦るせいで加減を間違える。ああでも怪我はしたくない。
必死になって力を操作する。
着地点にヒトの姿が見えた。
……うそでしょっ!
風圧に負けてよろめく後ろ姿に、キャンディはごめんなさいと心の中で謝った。
なのに。
「え? あれ? なんでわたし……ここどこ?」
きょろきょろ辺りを見渡し、座り込んだ足下の感触に疑問を覚えて視線を下げる。
目が合った。
とても綺麗な目が、ちょっと困ったふうに自分を見上げている。
「うわあああっ」
驚いて仰け反った拍子に、そこから転げ落ちた。
そこでようやく自分のいた場所が誰かの部屋のベッドだったと理解する。でもそれはおかしい。だってさっきまで自分は空を飛んでいたのだ。
「あのう……大丈夫ですか……?」
ベッドの方からこちらを窺うように見下ろす人影にキャンディははっとした。束の間その顔に見とれた。
この州にもそれなりに美形はいるけれど、この少年は彼らとは一線を画す。
というか種類が違うのだ。直感的にそう思った。
「だ、だいじょうぶ……じゃない、手貸して」
いつまでも見ていたい気持ちを振り切って、キャンディはそう答えた。
「ポップな名前ですね。――元気な感じがしてぼくは好きですよ」
モモという名の少年はキャンディの名前を聞いて、変だとも、なんでお菓子と同じなのかとも言わず、純粋な目でただそう告げてきた。
今までそんなことを言ってきたヒトはいなくて、キャンディは妙にこそばゆくて仕方なかった。
……外から来たヒトってみんなこうなのかしら。
最初はそんなふうに思ったが、会話を重ねる内に、これはモモの持つ感性なのだと理解した。
衒いもなくヒトを誉める。
友人に感想を求められたコミックに出てくる、女主人の執事が具現化したみたいだ。
だけどその執事と違って、モモはすぐ「ごめん」と謝ろうとする。
……なんか、あたしがいじめてるみたいじゃない。
そうでないと分かっていても、不快だ。
「そうやって、なんでもかんでも謝るの、やめた方がいいよ?」
そんなにきつい言い方をしたつもりじゃないが、モモがしゅんとするから、キャンディは内心慌てた。
……なんなのこの子。
執事? そうじゃない。これは主人につれなくされてしょんぼり耳を垂らした犬だ。そう思ったら本当に頭の上に耳が見えた気がした。
「怒ってないから、そんな不安そうな顔しないの」
一人っ子のキャンディは弟ができたらこんな感じかしらと、少し浮かれ気分で彼の手を引いた。
まさかそんな彼が、ヒトでなく人間だとは思いもしなかった。
告白されなければ、いつまで気付かずにいただろう。それくらい見た目はヒトと変わらない。
しかもモモは造られた人間だという。
この『最果て』で造られた人間といったら大体、ヒトの糧になる方をほとんどのヒトが考えるだろう。それくらい愛玩用などとは縁遠い生活をみなが送っている。
正体を知ると、キャンディの本能の部分が勝手に疼いた。
……この綺麗な少年の血はどんな味がするんだろう。
知った途端、そんな浅ましい考えに及んだ自分がいやらしくて許せなかった。
彼は餌じゃない。か弱い人間、そう、庇護すべき対象だ。
そう思うのに、時々気付くと彼の首すじをじっと見ている自分に気付く。
……どうしてあたしはヒトなんだろう。
モモとは友だちでいたいのに。
夢の中でモモに覆い被さって、恍惚とする。そんな自分に嫌気がした。
ずっと前からある胸のもやもやは、いつしかモモでも増減するようになった。モモの言葉で薄れて、モモに対する自分言葉で膨れて。
キャンディはすっかり自分を持て余していた。
そんなだからか、余計親にも会いたくなかった。
いつでも年甲斐もなくいちゃいちゃしている二人を見ると、やめてと大声で非難したくなる。
二人は近頃、キャンディが学校に行ってないことを知っているはずなのに何も言わない。まるで時間が経てば解決すると知っているみたいに、腫れ物触るかのような態度だ。
それが余計に苛つく。
放っておいて欲しいと思っているのに、でも勘に障る。
ささくれた心にあろうことかモモが踏み込んできた。
「……まだ反抗期?」
聞きたくない言葉を言ってくる。
「でも、反抗期だからしょうがないって見守っているだけなのはどうなんだろう?」
「うちのことに口挟まないで!」
かっとなって、なにも考えず言い放つ。
でもモモは「ごめん」とは言わなかった。
「その勢いを、お母さんにぶつけた方がいいと思うよ」
……知ったようなことを言わないで!
去りゆく背中をどんなに睨み付けても、モモは一度たりともこちらを振り返らなかった。もう今日でお終いだと線を引かれた気分で、キャンディの足もそこから動かなかった。
ああもうこれで二度と会えない。
そう思ってから、そもそもモモはここの住人でなかったことを思い出す。この国から出て行ってしまえば、それきりだ。どこから来たのかも訊いていない、知らない。
ひどく泣きたくなった。
終わりにしたのはモモじゃない、自分の方だ。
「キャンディ」
目を開けると、こちらを覗き込む両親の顔があった。
……どうしてそんな二人とも、泣きそうな顔してるんだろう。
「あたし……」
身体を起こそうとすると、メアリーにきつく抱きすくめられた。常にはない力強さに、キャンディは戸惑う。
「おかあ……さん?」
「よかった……」
涙声で心底安堵したように吐かれて、キャンディはさらに戸惑う。
「あたし、どうしたの」
答えたのはレムだった。
「人間の攻撃を受けて気を失っていたんだよ」
「あ……」
レムの言葉に記憶が蘇る。
「待って、モモは?」
「あの子なら無事だよ。きみをここへ送ってくれたのも彼だ」
「モモが?」
レムがああと頷く。いくらか真実を歪められてると知らず、キャンディは彼の言葉を信じた。
「きみが目を覚まさなかったらどうしようって、僕もメアリーも気が気じゃなかった」
「もうこんな危ないことはよしてちょうだい」
二人の心配が本物なのは痛いほどキャンディにも伝わった。なのにキャンディの胸はもやもやとしてくる。
「……いやよ」
「キャンディ?」
「あたしにはお母さんみたいな力はないし、お父さんみたいな頑丈な身体もしてない。だけどだからって何にもせずに遠くで隠れていたくない。毎日もやもやながら、そんな自分に知らんぷりして生活するのもできないの……っ」
自分が勝手を言っているのは理解していた。だけど一度口を開いたら止まらなかった。
鼻の奥がつんとして、じわじわと涙が勝手に目からあふれ出す。
「苦しいよ」
優しく見守られるだけでは不安だから。
どうかもっと叱って触って、一緒に泣いて笑って。
あたしを放っておかないで。
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自分達は大人でいすぎたのだと娘の涙を見て、二人は初めて気がついた。
メアリーはレムを、レムはメアリーを見た。そして自分達が同じ考えであることを識る。
赤ん坊を引き取ると決めたとき、不安もあったけれど自分達はきっと親になれると信じた。
その覚悟は日々試された。
どんな苦労も娘の笑顔があれば救われた。
だけど最近、娘は笑わなくなった。
反抗期だと気付いた二人は、不安もあったけれど、しばらく娘を好きにさせておくことにした。
きっと時間が解決する。自らが経てきた人生を鑑みてそう結論づけた。
だがそれでは駄目だったらしい。
はらはらと涙を流す娘を二人はそっと抱きしめた。
やっとわかった。見守るのではなく、一緒に乗り越えなくてはいけないのだ。
腕の中にある温もりが失われなかったことを二人は心から感謝した。