[Side:B]
州の内と外を隔てる巨大な壁。
その壁の内側、とある宿の一室の窓から壁の外側を見やってトットは唸る。
「これがモモの魔法か」
何にもない荒野にぽつりと少年がいる。
トットの視力が何とか届く範囲だから表情は鮮明でないものの、自分の置かれた状況に戸惑う様子は動きだけでも充分知れた。
敵ながら、トットもいくらか同情する。
さっきまで壁の内側にいたのだ。今まさに敵をねじ伏せる瞬間、相手が消えた……わけでなく、自分の居場所が変化するなど誰が想像するだろう。
転移装置のような仕掛けもなく、である。
少年の驚き具合から察するに、人間もまだ転移は使えないらしい。
ヒトにも人間にも使えない、不思議な力。
それが魔法。
あくまでも『不思議な』とヒトは定義する。故に現代科学で解明できない代物、それが魔法だ。
ヒト――竜種や吸血種の一部が持つ力は不思議でも何でもなく、最初から力を行使するための器官が備わっている。それこそが人間とは造りが違うところでもある。
一方で、壁外へ飛ばされた少年が使う不思議な力。
一見魔法のようだが、そうではない。超能力、と本人は言っていた。ちなみにトットは読心術が使える。目はいいが、さすがに屋外の遠く離れた場所の音を拾える耳の構造はしていない。
名称がある、ということはつまり魔法ではないのだ。
おそらく身体のどこかを弄られているのだろう。
弄られているのはヒトが造る人間も同じだが、餌として生み出すモノにわざわざ攻撃手段を備えつけはしない。
商品価値をあげるための策を講じたとしても、不思議であるがゆえに魔法を付与することは出来ない。
つまり、モモが持つ力とは偶然の産物というわけだ。
トットはぺろりと舌なめずりをする。
……おもしろいな。
アシュリー・ヘイズから頼まれたときは何故と思った。理由を聞いてライアンの願いらしいと知り、あのお節介……と思ったが、一番心惹かれたのは『魔法』だった。
竜種はその言葉通り、竜の特徴を持っている。
竜と言えば、金銀財宝をねぐらに抱え込むイメージがあるかと思う。竜種はそれを引き継いで皆、なにがしか収集癖を持っている。
バイロン家は『情報』だ。それを何よりの宝とする。
集めることに喜びがあり、それを使って何かしようという考えは後からついてきた。
バイロン家に支配欲はない。とはいえ、積み重ねた長い年月が、ただの傍観者の立場を許さない。
バイロンは不正確な情報を嫌う。だから噂話は鵜呑みにしない。数字化された情報や、己の目で見たものを至上とする。
だからトットは旅の間ずっと、モモのことを見ていた。いつ魔法を使うか、その時を待っていた。
見せて欲しい。
一言そう告げたら、人間であるモモはトットに逆らえない。
だがそれでは早々に目的が達成されてしまう。
トットが最果てに向かうのには理由があった。最近、過激派の人間が魔法のような力を使うらしいというのだ。
バイロン家としては、それを聞きながすことは出来ない。
その力がヒトの脅威になるのか。人間の技術力は以前より向上したのか。過激派の勢いは以前よりも増しているのか、はたまた衰えたか。
気になることはいくつもある。
魔法と、魔法のような力。
どちらが本物だろう。いやどちらも偽物という可能性だってある。
ならば、ぶつけてみればいい。
――結果、本物はモモの方だった。
霧の州へ戻ったら、モモを造ったバートリー社とやらを訪ねる必要がある。
アシュリー・ヘイズがもっと早く教えてくれていたら先にそっちへ行っていたのだが、出立までの日取り関係でそれは後回しにせざるを得なかった。
バイロンの名を出せば、秘密は秘密でなくなる。もっとも得た情報をバイロンは安売りしない。
だってそれはもう、バイロンの宝だ。財宝だ。
竜は欲深い。
トットは窓から離れた。
事が済めば高揚感に酔いしれている自分を想像していたのに、現実の自分の裏切られた。
「――おかえり」
きっと今の自分は情けない顔をしている。
モモという人間は、愛玩用という目論見どおり、人目を惹く容姿をしている。
よく出来た人形だと最初トットは思った。
物腰は穏やかで、気配りもできる。婦女子好みな仕上がりだ。
買い手はきっと彼を手放さないだろう。
……ああ、今サナギなんだっけ。
吸血種だけが持つ、奇病のような特徴。昏々と眠るが、これといって身体になにがしか変化が起こるわけでない。おそらく吸血鬼が日中、棺桶の中で眠るところからきた特性だとされている。吸血種が吸血鬼のような弱点をもたない反動だという。
いや、死に直結しないものの、一つ苦手はあった。
吸血種は流水が苦手だ。水の流れが速く、はっきりしているほどに忌避感に襲われる。雨の日に街の通りを歩いているのは大抵、他の種だ。
トットは耳をすませた。
微かに浴室からシャワーの音がする。外出から宿に戻ってくると、部屋の明かりは点いているのに、モモの姿がなかった。
美少年は風呂が長い。
おそらく己の商品価値を維持するケアをしているからだ。モモからはいつも、風呂には入れないような旅の道中であってもいい匂いがした。
絵に描いたような美少年。しかし驕ったところはなく、謙虚ですらある。
それすら設定なのか。
ライアンのことを告げても、怒りもしなかった。そもそもヒトに反抗心や敵愾心をもたないよう造られている。予想できた反応だったが、少しトットは気になった。
あまりにモモの反応が淡々としていたからだ。
人形だったらそんなもんじゃないか。そう言われてしまえば言葉に詰まるけれど、年寄りの勘というか、とにかく気になったのだ。
それに、さして広くもない車中で隣り合わせていれば気付くこともある。
おそらく無意識だろうが、たまにモモはどこかを遠いところを見ている。そんな日に限って、浴室から出てきた後、目が赤い。シャンプーの泡が染みたとか、そういうやつではない。
……まあそうだよなあ。
あるじとは離ればなれ。気がかりを残した旅が楽しいはずもない。
旅に出た後ライアンが連絡をくれた。
くれぐれもモモを頼むと。
まるで気の置けない友人の無事を願うみたいな様子に、トットの方が驚いた。
「随分入れ込んでるのな」
「……近くで見ていると、色々ね。思うことがあるんだよ」
「色々、ねえ」
「ああ、そうだよ。自分でもどうかと思うんだけれど、二人を見ているとまるで絵本の登場人物みたいだって思うときがあるんだ」
「二人って、まさかモモとアーヴィングの娘? おまえいつからロマンチストになった?」
「だから自分でもどうかと思うって前置きしただろう!」
自分で言ってて恥ずかしいのか、ライアンが声を荒らげる。だが、そのあと急にトーンダウンして、
「モモには悪いことをした……最果てなんて遠いところに、サラと離ればなれにさせるつもりじゃなかった」
「それはあとでちゃんと本人に、顔を見て言ってやるんだな」
「……だから。ちゃんと護ってやってくれ」
わかった、と応じながら誠意は三割ほど欠けていたと思う。
トットがこれまで見てきたモモの行動や性格を鑑みれば、多少の危険にでもさらされなければモモが魔法を行使することはないのではないかと考えられたからだ。
「……絵本ねえ」
おひめさまとおうじさまはめでたくむすばれましたとさ。
絵本の中でなんやかんや合っても最後は幸せな終わりを迎える二人。
ライアンはモモとその主人にそれを重ねているらしい。
でも虚構の人物と違って彼らは生きているし、二人の間には難しい問題がある。たとえ周囲の反対を押し切って、有無を言わさぬよう努力したって、ついて回る問題が。
モモは人間だ。
人間は吸血種にとっての糧、餌だ。吸血種は本能でそれを識っている。
共にあるというのは神経質といっていいくらい気を使う。もし、モモが紙片で指を切っって血を滲ませて、アーヴィングの娘の食欲が刺激されない可能性は決してゼロじゃない。
十年近く続いた共生を考えれば、賞賛に値する行為だ。
娘だけでなく、家族や使用人もまたかなり努力したと言えるだろう。
モモの買い手はこの上なく素晴らしい、ヒトが出来ている。
一方的な努力だけでこうも続きはしないから、もちろんモモの行動もかなり計算されているはずだ。
でも人間は自分が何のために生み出されたか識っている。きっと娘が牙を突き立てるときは喜んで喉元をさらけだすだろう。だってそれが存在意義だ。
ライアンが望んでいる結末はそれではない。それくらいトットにもわかる。その上で、彼をお節介だと思う。
何が幸福かなど、当事者以外に分かるはずもない。
「――あ、トットさん」
浴室から顔を覗かせたモモが「おかえりなさい」と言ってくる。
何食わぬ顔して、言ってくる。
ただいま、と応えながら、あー……泣いたんだなとトットは思う。きっと本人は隠せている気でいるから、無粋なことは言わない。ここに十人いても多分一人か二人だ、気付くのは。
人間は隠れて泣いたりしない。
モモは絵に描いた美少年ではないのだ。
……罪悪感なんて湧かないと思ったんだけどな。
ベッドで眠る、傷ついたモモを見下ろしてトットは自嘲し、顔を歪める。
言霊を使ったから命に関わることはないと分かっていたけれど、いざ現実に直面すると理性と感情は別らしい。
きっとそう、傍に置きすぎたからだ。
これでライアンのことをとやかく言えなくなってしまった。
――いいんです。生きて、戻れるなら。
――ぼくは早く帰りたい。
なんて言われてしまったら、ひどい言葉で詰られるよりも胸が痛んだ。
「……おひめさまとおうじさまはめでたくむすばれましたとさ、か」
おとぎ話はおとぎ話だ。
だけど、そうでもないことは『亜人』が証明している。
一人の男の妄執が成し遂げた人類の変化点。
それを思えば一人のヒトと一人の人間が末永く暮らすことはそう難しいことじゃないのかも知れない。
……俺もライアンに感化されたのかな。
トットは苦笑して、モモの耳元に顔を寄せた。
「バイロンの名の下におまえの、いや、おまえとご主人様の幸福を約束しよう――」