[Side:S 2/3]
――わたしの可愛いかわいいお人形。
モモのこと、はじめはそれくらいにしか考えていなかった。
サラのたった一言で一喜一憂する健気で可愛らしい生き物。受け身なだけじゃなく、何があるじにとって最適で最良か自分で考えて行動する賢さも併せ持っている。
おまけになんと、モモは『魔法』が使えた。
古い言葉に当てはめるなら『召喚』というものだろうとモモは語った。どうして使えるのかはまだ解明できていないらしい。いまのところ、偶然の産物ということにされているのだそうだ。
モモは需要があるならいくらでも披露する気でいたが、サラはやめさせた。グレンもこれには同意した。
魔法の行使はモモの幼い身体にはかなり負担だからだ。
人間だけど、見た目はヒトと変わらない。いたいけな子どもが熱を出して弱っている姿は、アーヴィン家の面々に呵責の念を生んだ。
モモがまた紅顔の美少年であることも、より助長する。その顔で気丈にも微笑んで「大丈夫」と言われると、無理をするなと言わずにはいられない。自分が庇護してやらなくてはいけない気にさせられる。
グレンはモモに部屋を与えようとしたが、サラは一緒がいいとごねた。
眠るときは一緒のベッドで寝た。
食事の時は隣に座らせた。
その日着る服を選んでやり、爪の手入れも定期的にしてあげる。
そして時々お風呂にも一緒に入った。
初めて一緒に入った時、モモがとんでもないこと言い出した。
「あ、のですね。ひょっとしたら見当違いなのかもですけど、ひょっとしてひょっとしてぼくを使ってなにかエッチなことがしたいんでしょうか?」
色々とショックだった。
まずモモにそういう知識があること。まだ八歳の子どもだという認識でいたから、本当に驚いた。
それから自分がそういうことを望んでいるかもしれないと思われたこと。
もっとショックだったのは、望まれたらモモが応えるつもりだったことだ。
サラだからではなく、あるじに望まれたらそうするという図式がモモの中に組み込まれていることがわかって、サラは考えさせられたし、悲しくなった。
……わたしじゃなくても、できるんだ。
だけど一生懸命なモモはサラの想いにはちっとも気がついていない。
それにも悲しくなって、でもそうかと気付く。
今、モモのあるじはサラなのだ。
サラがその座を譲らぬ限り、それは揺らがない。ならば、モモの態度も変わることはない。
……あたしだけのモモ。
サラはモモの鼻先に口づける。本当は唇にしたかったけれど少し勇気が足りなかった。
「……エッチな話はモモがもっと大きくなってから、しましょう」
モモが邸で生活するようになって少しして、サラは休んでいった学校に行き始めた。
モモの部屋をグレンと交渉したときの交換条件だったから、仕方なかった。
久しぶりに登校したサラにクラスメイトはいつもみたくどこかよそよそしくて、でもそれを辛いとは思わなかった。もともとサラはそんなにクラスに打ち解けていなかったからだ。
教室の片隅で読書するサラは初等部の頃から協調性のなさを教師に指摘され、だからといって進んで仲間の輪に加わりもせずいたら、みんなもどう扱っていいのか分からなかったようだ。
男子は目を合わせようとせず、女子からはおっかなびっくり「アーヴィングさん」と声を掛けられる。
特に不便なこともないので、改善しないまま今日に至っている。
実際のところ、『霧の州のあるじ、アシュリー・ヘイズの右腕と目されるグレンアーヴィングの娘』であるゆえにサラはクラスメイトから遠巻きにされているのだが、どちらにせよ扱いあぐねているのには変わりない。
授業中、教師の声を聞きながら、早く家に帰りたいなと思いを廻らす。
わざわざ学校へ行かなくても勉強はできる。だがグレンは同じ年頃の子どもと接し、考えに触れ、刺激を受けるべきだという考えの持ち主だった。
『視野を広げなさい。お前は一つに固執するきらいがある』
そうかもしれない、とは思う。
だけど今、この教室にいてサラは退屈を感じていた。最後尾の席からクラスメイトの背中を睥睨し、いったいこの子達から何が得られるのだろうと考える。果たしてそれはサラの実になるモノなのか。
父と約束したから仕方なく従っているが、本当は部屋でモモと本を読んでいる方がずっと楽しくて退屈せず、ためになるような気がしてならない。
モモは、サラが疑問を投げかけたら「分かりません」とはまず言わない。頭の中詰まっている知識を総動員して、必ず何か答えてくれる。モモが考えを廻らせている時間も、サラは好きだった。自分のために一生懸命になっている様子を眺めていられるからだ。
少し、想像してみる。
今ここに、隣にモモがいたら、退屈な授業もそうでなくなるのではないか。
サラの隣でじっと教師の話に耳を傾けるモモ。休み時間に肩の力を抜いて、難しかったですね、なんてサラに話しかけてくる。
……ああでもモモは賢いから、難しい、なんて思わないかも。
ほんの一時の妄想はサラの心を和ませ、無意識に唇を綻ばせた。
授業中だったが、うっかり気付いた何人かがぎょっとした。サラはあまり笑ったり、感情を露わにしないことで有名だったから。もちろんそんなこと、サラは知らない。
サラの思考は、モモを学校に通わせることはできるだろうか、ということに移っていった。
許可を得れば人間を学び舎に伴うことはできる。
けれどそれは、これまでサラが眉を顰めていた現実だった。許可をとるものの多くは自慢の人間を見せびらかせたいか。はたまたは昼食を持参してきたに過ぎない。学ばせる目的で連れてきているものは一人も見たことがない。
自分は彼らとは違う。サラはそう思った。
朝、モモと一緒に登校して、授業を聞いて、お昼を食べて、授業を聞いて放課後また一緒に帰る。
そうしたら、モモと離れなくていいし、モモだってサラの帰りを待たなくていい。
けれど、現実はそう簡単でない。
モモは人間だ。
ヒトの群の中に放りこまれて無事でいられる保証はどこにもない。
いくらサラの通う学校が良家の子息子女の集まりとしても、血の誘惑には抗いがたい。大人に比べ、血への自制心が弱い。あるじの見えないところで傷つけられ貪られたという話はよくあることで、サラもそうした場面に遭遇したことがある。
万が一、モモがそんな目に遭ったら……耐えられない。
学校側は許可こそだすが、その際責任は学校側にないことを誓約させる。だから教師も一応注意はするが、深く関わろうとはしない。
守りたいなら、常に傍に置く以外にない。
……できるかしら。
心の天秤は不安より欲に忠実に傾いた。
「お父様、」
モモを学校に通わせたい。そう告げたなら、グレンの顔がいつも以上に険しいものになった。
「サラ。それがどういうことか分かって言っているのか?」
「はい」
「……おまえが考えた以上にきっと現実は厳しい。あの子を守れるのはお前だけだ。それがどんなに難しいか、いやというほど思い知るだろう。サラ。もしモモが損なわれるようなことがあったとしても、それはおまえの手落ちだよ。わたしは届にサインをするがそれだけだ。それでもいいか?」
モモは神妙に頷いた。
グレンは娘の顔を見つめ「好きにしなさい」と告げた。手放しに許可したわけでないことは明らかだった。何といっても親子だから、そういうことはちょっとした声や表情の変化ですぐ分かる。
それでもサラは前言を翻しはしなかった。
これでモモと学校に通えるんだと、頭の中はその一点に沸いていて、本当の意味で父親の言葉を識るのはモモが生徒たちに集団で襲われたあとだった。
その日、生徒伝手に職員室に呼ばれたサラは、不測に事態に陥った。
誰もサラのことを呼んでいないというのだ。
どういうことだと訝るサラに、教師の一人が折角だから教室へ戻るなら配布物を持って行ってくれないかという。断る理由は見あたらず、ちょっと待っていろと言う言葉に従いサラはその場で佇んでいた。
時間が経つにつれ、胸がざわざわした。
教室で待っているモモのことを思う。きっと今日のお弁当の中身を想像して、そわそわしているだろう。
早く戻ってやりたい。そう思っていた矢先だった。
どすんとありえない音がした。
いきなり床に転がった職員用の椅子の傍に一人の男子生徒が落ちていた。そう表現するのがぴったりの姿勢で床に丸まっていた。
サラはその顔を見間違えたりしない。だから誰より早くその傍に駆け寄った。壊れ物を扱うようにそっと抱き上げる。
「モモ」
名を呼ぶと安堵からか、彼の目から涙が零れる。
それを見た瞬間、サラの中の針が振り切れた。人生を振り返ってみて、こんなにも激しい憤りに駆られたことはない。
憤りは、モモを襲った生徒達はもちろん、サラ自身にも向けられていた。
モモは襲われはしたけれど、大きな怪我には至っていない。血も吸われてもいない。
でも相当恐ろしかったはずだ。サラが思う以上に、きっと。だって彼はまだ八歳の子どもだ。サラだって年齢を言えば子どもだが、それよりずっと年下だ。いくら賢くて大人びた言葉遣いをしていても、経験に差がある。それになにより人間だ。肉体的に、ヒトには敵わない。
だからこそ、サラは目を離してはいけなかった。すぐ戻るからと教室に置いてきてはいけなかった。クラスメイトを信用してはいけなかった。
騒ぎの責任を取る形でサラは学校をやめた。元から意欲的でなかったから未練はない。けれどモモが責任を感じて「ごめんなさい」と繰り返すから、それが一番堪えた。
モモは何も悪くない。サラの期待に応えようと色々背伸びもして、それで疲れることの方が多かっただろう。
……一緒に学校に通いたいなんて思ったから。
我が儘を通したから、モモは負わなくていい苦労した。見えないところにたくさん傷を付けられた。
ごめんと謝るのはサラの方だ。
守る? とんだ嘘つきだ。
「サラさまがうそつきなら、ぼくだってうそつきだ」
モモの言葉にサラは胸が詰まった。涙が零れそうになって、堪えなくちゃと口を引き結ぶ。
嗚咽に変わる言葉を探して、何も出なかった。ただモモを抱きしめて、呼吸を整える。
一つだけ、訊いておかなくてはいけないことがあった。
「モモは……学校楽しくなかった? わたしはモモが隣で楽しかった」
教室でも隣にモモがいる日々は楽しかった。
モモにベタベタする女子生徒とか、モモにわざと足を引っかけて転ばせようとする連中とか、鬱陶しいことも色々あったけれど。
モモはどうなのだろう。
本当は、辛いだけだった?
「ぼくは……ぼくも楽しかったです」
「よかった。わたしの我が儘で決めたからどうなのかなって思っていたの」
そう言葉を返しながらも、サラは不安だった。だってモモは、あるじを喜ばせるためならきっと平気で嘘を言ってしまえるから。
「サラさまが一緒にいるのに楽しくないわけがないです」
迷いのない目でモモは答える。
サラはじっとその目を覗き込む。そんなことをしても真偽などサラには分かりっこない。
……だめよ、疑いだしたらキリがない。
モモだって嘘はつくだろうが、さすがに虚言癖ではないはずだ。
……わたしが信じなくてどうするの。
そう思うのに、確かめずにはいられなかった。
「ほんとう?」
「はい」
見上げる瞳の綺麗さに、サラは疑った自分を恥じた。
この瞳に今の自分はどう見えているのだろう。
モモに必要とされたい。そういう存在で居続けたい。そのために努力しよう。
同じ過ちは繰り返さない。モモのことは私が守るから。
だから離れて行かないで。